2007年06月20日

柳宗悦著「手仕事の日本」、桜は梅をそしらない

(mixi の本のレビューとほとんど同じです。)

メモ程度にしか書けませんが、深く感じ入っております。

1、私たちの萩の店(屋台)のバックボーンにすえたい本。
 とくに第3章 健康な美、実用のうみだす美。
2、地方と職人の位置の高さ
3、1943年(昭和18年)にこのあとがきは書かれている。
  鬼畜米英の時代にこんな文章が書かれていた。そのぶれない姿勢。今なら、共生の思想というだろうか。

桜は梅をそしらない・・・しばらくいいつづけることになりそうです。

手作りという言葉が、どうにも好きになれなくて
手仕事という言葉を辞書でみたが、「手先の器用さ」程度の意味しか与えられていない。でも、この本をみつけて、すべては一変。
名前だけしっていて、業績の中身を知らなかった柳宗悦。
学ぶことの多さに呆然かつわくわくしております。

参考に、後記から引用しておきます。
「・・・
第3には地方的な郷土の存在が、今の日本にとってどんなに大きな役割を演じているかを明らかにするでありましょう。それらの土地の多くはただに品物に特色ある性質を与えているのみならず、美しくまた健康な性質をも約束しているのであります。私たちはそれらのものを如何に悦びを以って語り合ってよいでありましょう。
 吾々はもっと日本を見直さねばなりません。それも具体的な形あるものを通して、日本の姿をみまもらねばなりません。そうしてこのことはやがて吾々に正しい自信を呼び醒まさせてくれるでありましょう。ただ一つここで注意したいのは、吾々が固有のものを尊ぶということは、他の国のものを謗るとか侮るとかいう意味を伴ってはなりません。もし桜が梅を謗ったら愚かだと誰からもいわれるでしょう。国々はお互いに固有のものを尊び合わねばなりません。それに興味深いことには、真に国民的な郷土的な性質を持つものは、お互に形こそ違え、その内側には一つに触れ合うもののあるのを感じます。この意味で真に民族的なものは、お互いに近い兄弟だともいえるでありましょう。世界は一つに結ばれているものだということを、かえって固有のものから学びます」
 岩波文庫 239〜240頁

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2007年06月11日

本間義人著「地域再生の条件」、自分の力で、

本間義人著「地域再生の条件」岩波新書、2007年1月

あったか村福賀の近くにあり、お世話になっている集落が、今年、中学生以下がいなくな
ってしまった。
子供会がこれでなくなってしまった。子供会の世話も出来なくなり、予算も計上する必要
がなくなってしまった。子供会の作業として実際は大人の恒例行事として行っていた花壇
作りも、名実ともに子供会行事ではなくなってしまった。
当然、寂しいことにはちがいなくて、10年後には集落がどうなっているか、と誰もがお
もいをめぐらすことになり、傍目にはみなさん落ち込んでいるのではないかと想像するの
だけれど、実際は、かなりちがっていた。

泥落とし(農繁期後の骨休めをかねた部落の行事)には、ほとんどの人が参加して、今後
の村作りについて熱心に語っていたし、何らかの打開策が必要だという共通の認識が出来
上っていたように感じた。むしろ、ある種の開き直りが生まれて、やる気がみなぎってみ
んな若返ってきたように感じたのは私の思いこみだろうか。
また、「今子供連れてこの集落に引っ越してくれば、その一家はどれほど大事にされるか、
言葉ではいえないであろうよ」とどなたかが語っていたが、とても真実味を帯びていた。

全国の多くの中山間地で同じような事態が進んでいることが報道されている。
さまざまな試みが行われていることも、知らされている。
この本は、それらを集大成した本であり、考え方の整理にとてもよい。


とくに、村とまちの交流、IターンやUターンした人が参加し、経歴や考え方がそれぞれち
がうことがあらかじめ前提であるようなグループにとっては、ひとつの言葉にしても、い
ろいろな理解があり、必ずしも同じことを意味しているわけではないことがおこりうる。
そんな場合、なにも考えを無理に一致させたりすることを急ぐよりも、この本を間におい
て論議して、次第に違いを違いとしてみとめつつ、じっくり共通の柱をたてて行くことが
大事ではないだろうかと思う。

次のような文章がある。地域の力を考察した箇所、160頁〜161頁。
「地域の自律と自立」という見出しで
「自律とは自分で自分の行為を規制すること。外部からの制御を脱して、自身の立てた規
範に従って行動することであり、また自立とは、他の援助や支配を受けず自分の力で身を
立てること(いずれも広辞苑第5版)を指します。つまり、自律とは自己決定による行動
を意味し、自立とはあらゆる部面において他者に依存しないで自らいきることを意味して
いるといっていいでしょう。これまで地方、地域ともにそれらが乏しかったのです。その
典型的なパターンが、国に従っていれば大丈夫、あるいは国のいっていることにまちがい
はないと、霞ヶ関に依存してきたことでしょう。計画から予算の執行(自治体財政を制
約してきた補助金制度が存在したにしても)まで、国にしたがうままできたのです。しか
し、それが誤りであったことは(霞ヶ関以外の)誰もが認めざるをえなくなっているわけ
です。政府が組織した地方分権推進委員会でさえ、そういう認識でした。地方分権にとっ
てもっとも重要なのは、地域がいかに自律と自立を果たすかにかかっているといっていいでしょう。」

抽象論は、具体的に実現していく過程にいるとさまざまな困難が伴ってくるものだけれど
だからこそ、抽象論・理念としてしっかり確認しておくことが大事になる。
そんな意味で、地域おこしの学習会などのテキストに適しているように思う。

一つには、地域再生・村おこしの知識の整理に役に立つ。全国のほぼすべてを網羅しているとみてもいいようだ。知っていること、知らないこと、を一応の事例整理として、つかめる。

ふたつめに、大きな流れを知ることができる。
その根本には、行政と公共事業との距離の問題がある。
著者は、行政中心の地域再生には懐疑的だ。というより批判的だ。もう行政一辺倒の役割とあり方は、はっきり終ったという認識にたっていて、住民主体の地域再生をつくりだす必要を繰り返し訴えている。人権、地場産業の育成、自然との共生、横並びでない独自の地域つくり、などの基本テーマが、住民主体、住民自らの意志として形成されることの大事さを繰り返し説いている。

三つ目に、結局は、どこかの地域が成功したからといって、それをそのまま持ち込んで真
似てもうまくいくはずがなくて、自分の地域の特性と課題をみつめ尽くして住民自らが自
分たちの力で考え抜いて実行する以外にはないことを示している。
結局は、自分たちの力でアタックすることが王道となる。

集落のみなさんの取組みと
あったか村の独自の村作りと
ともに刺激しあいながら、なにかを新たにつくりだせればいいなあと思う。
読んだ人の意見を聞きたいものだ。

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2007年06月10日

岡並木著「舗装と下水道の文化」、下水道史

ユゴー「レ・ミゼラブル」の下水道批判は、とてもすばらしい。
第5部2章巨獣のはらわた が、それである。
物語の展開と関係なしに独立した論文として挿入されている。
修道院の歴史と実際についても書いていた箇所があったからこれは、作者の癖なのか、当時の小説の習慣なのだろう。

この箇所の紹介と私自身のコメントは、水処理通信に以前に書いた。
http://homepage2.nifty.com/watertreatment-club/theme/hugo.html
拙いものですが、関心ある方はのぞいて下さい。

岡並木著「舗装と下水道の文化」(論創社、1986年)は、
ユゴーの下水道批判をいかすうえでも、これからの水処理を考えていくうえでも、とてもいい本だ。
一つには、冒頭に「ジャン・バルジャンーー脱出経路の解明」とあって、パリ下水道の古い図を参照して、脱出図をつくりあげている。
ふたつには、フランスでも、ユゴーの批判以前に「農地還元法」が、下水道当局によって試みられていることが、明らかにされている。
三つ目に、日本における土壌処理法が紹介されて、下水道の今のやり方がすべてではないことが紹介されている。

水処理にまつわるエピソードも豊富で、読み物としても、参考文献としても
とても良い本だ。

なお、「ピーチパラソルをたてたカフェテラスが家族連れで賑わい、大道芸のヤギのはしごのぼりに拍手を送る人の群れがいた。」という記述が冒頭にあった。(サンドニ街の様子を書いたところ、3頁)
深く検討したいところだけど、もちろん、テーマとは異なるのでメモだけにしておきます。

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2007年06月02日

ユゴー「レ・ミゼラブル」5、芸術と科学

ボチボチと、読んでいる。
日に数ページのときもあれば、数行のときもある。
5巻まできた。
冒頭からバリケードの攻防戦である。
その渦中での断章。

こんな文章があったので、ちょっと立ち止まって引用しておく。
ユゴー「レ・ミゼラブル」5 佐藤朔訳 新潮文庫
114頁からの引用。

===========
近代の理想は、芸術の中にその典型を持ち、科学の中にその手段を持つ。詩人の荘厳な幻想を、つまり社会の美を実現するのは、科学によってである。エデンの園はA+Bで再現されるであろう。文明が到達した現在の地点では、正確が光栄の必要な要素であり、芸術的感情は、科学の媒介によって助けられるばかりでなく完成される。夢も計算が必要だ。征服者である芸術は、歩く人である科学をよりどころになすべきである。堅固な土台が大切だ。近代精神とは、インドの天才を馬車とするギリシャの天才、象にまたがるアレクサンドロスである。
=====================
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2007年04月06日

コーヒーは、山羊が発見した

島村菜津著「バール、コーヒー、イタリア人」光文社新書

世界で一番先にコーヒーに目ざめたのは、山羊だという。
「イエメンのシェハディ修道院に残るという逸話によれば、あるときカルディという若者が、自分の山羊たちの様子が変だと修道院長に相談にやってくる。山羊たちは、やけに興奮して、夜も眠ろうとしない。」
(146頁)
ここから、その原因を探ると、のちにコーヒーの実と呼ばれることになる赤い実を山羊たちが、食べていたこと、その実をつぶして、煎じてすすると体中に活力が湧いてきたという。
かくして、コーヒーの第一発見者は、山羊であると人間の歴史に残った。めでたし、めでたし。なんといいはなしであることよ。

とまあ、ここでわたしとしては、書き終わっておいてもよいのだけれど
この本は、そのために読んだわけでもないので、ちょっと追加のメモをしておこう。
「何事にも10人がもろ手をあげて賛成するような社会は、イタリア人にとって不健全な社会である。多数派がはいといっても、少数派が嫌だと声高に唱えてこそ、社会は健全であると考えているふしがある」(183頁)
いいことばですねえ。その通りだと思う。
このメモだけでも、読んだ価値があった。

ところで、この本のメインテーマであるバールでだけれど、
喫茶店かといえばそうでもない、雑貨屋さんかといえば、そうでもなく、コンビニとはもちろんちがう。コーヒーやアルコールを飲ませてくれて、立ち話ができて、都心にもあり、日に何本も通らないような鉄道の駅の側にもある。有名な観光地にもあって、旅人が一休みするのにもいいという。だけど、観光案内所というわけではない。すべてであり、すべてでない。これは、一体なになのか、というのが、この本のテーマである。うろ覚えだけれど、「スローフード」という言葉が流行するきっかけになった、島村さんの本「スローフードな人生」の中に、田舎の駅のバールの話として、1章取り上げられていた。

で、結局何なの?・・・よ〜、わかりません。読んでもさあなんだろう?で終ってしまった。コーヒーの歴史は、よくわかった(笑い)
わからないというのは、おそらく、日本でいえばなに該当すのかなあと考えて読んでいるからだろうと思う。類似を探して、いるんですよね。
人のたまり場が、本質かなあとみています。とくに、用事があってもなくても、なんとなく集まり寄ってくるところ。ついでになにかの用事。
江戸時代の床屋談義の床屋もそんな役割があったのではなかろうか。農村では、若衆宿。・・・ちがうかなあ。

最近、わかってきたことだけれど、人はなんとなく集まりたがる動物だ。そこで、なんということのない話を楽しむ。場所や時間やかたちは、さまざまだけれど、そんな楽しみをする動物である。山羊や羊もそうだよ、と山羊や羊からも、他の動物からも声がとんでくるであろう。そうですね。動物全体に、言えることかもしれない。

この冬のあったか村の小屋もそうだったなあ。
この間寄ったとき、萩市の萩博物館横の清水さんの蒸気船饅頭屋台も、地元の人が、けっこう集まって、おもしろいサロン風だった。
ブログに人が群れてコメントがあったり、mixi に書き込みが続いたりするのも、そんなことの変形かもしれない。

コーヒー発見の名誉は山羊もの。
そのことを書いた本が、イタリアの人の習慣を書いたものと、なにかつながりがあるだろうか。
特にないようだ。でも、読む人間が、山羊好きだから
とんでもない本の紹介になってしまった。
なにかの参考になればいいですが・・・。



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2007年02月16日

「レ・ミゼラブル」パリは世界をあらわす

少しずつ読んでいます。
メモしておいた方がいいと思うところです。
下水道論でもパリの位置が出てきます。

「浮浪児はパリをあらわし、パリは世界をあらわす。
 なぜならパリは総和だからである。パリは人類の天井である。この驚異の都市は、過去現在のあらゆる風習の縮図である。パリをみれば、ところどころに、天と星座をもった歴史全体の裏側がみえるような気がする。」 P24

「パリはいつも歯をむき出しており、怒鳴らないときは笑っている。
 これがパリだ。パリの屋根の煙が世界の思想なのだ。泥と石の山というのは勝手だが、なににもまして、パリは精神的存在だ。偉大以上のもの、無限大なのである。なぜだろうか?パリは断行するからである。
 断行すること、進歩はその賜物なのだ。」 P30



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2007年02月13日

[ 「アホウドリの糞でできた国 ナウル共和国物語」

文:吉田靖 絵:寄藤文平
「アホウドリの糞でできた国 ナウル共和国物語」
発行:アスペクト 1,000円+税 2005年1月

すぐに読めてしまった。
文もシンプルで良いが、絵も線がとても好きだ。
どちらもわかりやすい。
シンプルでいい本だ。

ナウル共和国自体がとてもシンプルだ。
まるで、単細胞の生物の標本を見ているような錯覚に陥った。
日本やアメリカでは、大きいので全体像も骨格も中もようわからないところがある。イメージを結んでわかったような気になる以外にはない。

ナウル共和国は、小さな市程度で、わかりやすい。
人口1万2088人(2001年)
世界で3番目に小さな国だそうだ。
この国は、サンゴ礁の上に、アホウドリが糞をして
それがリン鉱石に時間をかけてなって、そのリンに依存した国つくりをやってきた。リンはとても大事な肥料になる資源で、争奪の対象になっている。ユゴーの「レ・ミゼラブル」にも、ヨーロッパなの国々が南極大陸や諸島にペンギンなどの糞の蓄積したリンを求めて取りに行くことが指摘されている。人糞に含まれているリンを海に捨てているくせに・・・と批判してだけれど。

この本を読むと誰もが引用したくなる箇所がある。
私も引用しておこうと思う。
「ナウル共和国には税金はありません。
教育、病院は無料。電気代もタダ。
結婚すると、政府が2LDKの
新居を提供してくれます。」
つらくて厳しい発掘作業も自分でやらずに
周辺からの出稼ぎ労働者にまかせている。
政府の仕事も、外国人を雇っている。
水は、ミネラルウォーターを輸入している。
食事は全部外食で、買い物は車から降りないドライブスルーだ。

「日本の平均的な生活を働かずにできる」と書かれている。

資源に依存しているという意味では、石油に依存しているアラブ諸国と同じだけれども、根本的にちがうのは、貧富の差がほとんどないということらしい。このことは、おもしろい研究課題だろう。

こんな生活をすると人はどうなるのか?
怠惰になる。肥満になって糖尿病が流行る。・・・実際そうらしい。
なんといっても、あとに戻れなくなる。
資源のリンは、もちろん有限でいつまでもあるわけではない。
この本の後半は、危機と対処のナウル流ドタバタに当てられている。
でも、あまり焦っている様子はない。

井上やすし原作の「ひょっこりひょうたん島」はこの島がモデルだったのではないかと思えるフシもある。

一番の危機が迫っている。
地球温暖化による海面上昇だ。沈没してしまう可能性が高いのだ。
このことを含めて著者は、ブログで動きをリアルタイムで追跡している。

http://tekigi.hiho.jp/blog/archives/cat3/


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2007年02月07日

今年は、ユゴー「レ・ミゼラブル」をゆっくりと

寝る前に、ちょっと読む本、朝起きて少し読む本の話だ。
昨年は、ある先輩にすすめられて山岡荘八「徳川家康」全26巻を読んだ。後半はだれたけれど、まあ、読み終えた。
一昨年は、「赤毛のアン」にすっかり夢中になって、シリーズ全部を読み終えた。原文にも手を出してしまった。
毎年、集中して読むのが、癖だ。
だいぶまえに、池波正太郎「鬼平犯科帳」も、シリーズ全部読んでしまった。この作者は、もう一度読んでみたい。蕎麦と日本酒の場面がどうしても何度となく読みたくなる。中毒に近い。
ディック・フランシスの競馬シリーズも同様もう一度全部読み通したい。

だいたい、ボチボチ読むから、1年くらいかかる。
その間、他のものは読む気がしなくなるので、選択をあやまると1年を棒にふることになる。だから、慎重に選考委員会を開いて、その年の本を決める・・・というようなことは、もちろんしない。
気まぐれになんとなく決まってくるのである。
それで問題ないのである。なりゆきほど正直で的確なものはない。

「レ・ミゼラブル」は、下水道の場面が水処理関係者必読の場面である。下水道にタッチしているひとは目を通すべきであろう。私も、だいぶ前に水処理通信に感想を書いた。最近、岡並木著「舗装と下水道の文化」(論創社)を読んでいたら、ユゴーの下水道に触れた箇所の指摘があった。ひとつは、ジャンバルジャンが、もぐりこんで逃げ込んだマンホールは、どこにあるのか、そこからどう抜けて、外へ出たのはどの地点かという調査だった。執念深く探し当てて、地図に落とし込んでいるのには感心した。その出口は、今は、廃止されているそうだ。
もうひとつは、ユゴーの下水道批判が実はあたらないということ、ユゴーの批判以前に下水道の担当者によって、糞尿の畑への利用が行われていたというのだ。「東洋の百姓を見習え」とユゴーが日本や中国の農民の糞尿再利用・農地還元をほめ、パリを批判したのがあたらなくなるのだ。やろうとしなかったのでなくて、うまくいかなかったというのが真相のようだ。糞尿再利用・農地還元とリサイクルの思想が、まったくないのではないということがわかった。
私の文章も、江戸時代の糞尿循環をヨーロッパと対比しながらユゴーに援護されて書いているので、ここは見直し・書き直しが必要なところだ。それで「レ・ミゼラブル」を読みはじめたのだけれど、下水道へのコメントの箇所だけではもったいなくなって、最初から丁寧に読むことにした。下水道の参考文献としてだけでなくて、小説としても楽しむということにした。

年末年始からボチボチ読みはじめて、ワーテルローのたたかいへの長い論評も終り、修道院についての歴史的哲学的現世的な考察も終って、ジャンバルジャンとコゼットは、ようやく修道院の一隅に安全な居場所をみつけた。ここまでの波乱万丈とユゴーの長い演説というか論文の変形というか、おしゃべりが大変なんだ。ここを越すと読むのにもごつごつしたところがなくなって、ついつい長い時間をかけて読みたくなる。自動車に積んでおこうか、という誘惑が起ってくる。そうなると他のことに手がつかなくなるから要注意だ。あくまでも睡眠誘発剤であり寝起きのめざましかわりだ。もう2月、まあまあいいペースか。ユゴーの長演説にもゆっくりつきあってみよう。


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2007年02月06日

本「なぜ、白ヤギの手紙は黒ヤギに読まれなかったのか?」

小野田孝著「なぜ、白ヤギの手紙は黒ヤギに読まれなかったのか?」
(幻冬舎ルネサンス)

ネットで注文した本が届いたのですぐに開いて驚いた。
この本は、ヤギの本ではないのである。
題名だけヤギなのだ。
実際は、ビジネス書といわれるジャンルの本なのだ。

ヤギの黒ヤギと白ヤギは、コミュニケーションが下手だった。
だから、手紙を読みもせずに食べた。
そして、その無限繰り返しに陥っている。
ヤギはかようにアホである。
人間、とくにビジネスマンは、そんなことではいけないので
「コミュニケーションデザイン」の力をつけて行かなくてはならない。
そのための考え方と練習法を書いてあるのだそうだ。

たとえば、ぱっと開いたところには、
「表情・身振り・手振りの力を身につけましょう」
というところでは、
「笑顔はみんなを元気にします」
「仏頂面は周囲のエネルギーを吸い取ってしまうのです」と書いてある。まあ、そうだろうなあ、とは思うけれど、
ヤギのことはそのあと全然書いてないから、仏頂面になってしまうのは
やむをえない。

繰り返すけれど、私は、ヤギの本だと思って買ったのだ。
少なくとも、「黒ヤギ・白ヤギ」の無限往復書簡の交換がどうしてはじまったのか、気長につづけたのは本当は、ふたりの間に、何らかの好意的了解事項が無言のうちにあって、それで、わざと手紙を開かずに、食べていたのではないか。そんな微妙な意志の通じ合いを分析検討して、もってヤギにおけるコミニィケーションについて考察しているのでは、ないか。そう考えて、わくわくしながら注文したのである。

ワ〜イワ〜イ、アホなのはへちまやさんだよ〜。
という声が、メーメーと聞こえるけれど、やんぬるかな。
まあ、適当に読んだら、食いちぎってくれよう。

くどく繰り返すけれど、私はヤギの本だと思って買ったのだ。
人間の、ビジネスマンのノウハウ本だと思って買ったのではないのだ。
これでは、羊頭狗肉ならぬ ヤギ頭人肉ではないか。

えつ、なんだって?
そんなあわてものに、観察力を深めて表現の基礎力をつけてほしいだって?・・・うんまあね、ほんのタイトルにはだまされないようにするよ。中原中也の詩集「山羊のうた」もそうだもんね。
実際のヤギやヒツジは全然出てこないんだよね。
あの時も残念だったねえ。










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2007年01月14日

人間の中の動物(ユゴー「レ・ミゼラブル」1)

「その真理とは、蠣殻から鷲まで、豚から虎まで、すべての動物が
人間のなかに存在しているし、一人の人間のなかにどれかの動物が
存在しているということである。ときには、数種の動物が、同時に
存在こともある」

 ユゴー「レ・ミゼラブル」P267から。
  新潮文庫 佐藤朔訳

東洋の干支の考え方は、なにか関係あるのだろうか?
私の中には、どんな動物が住んでいるのだろうか?と考えてみる。
昨日のブログのこと、反響が多いので驚いています。

犬を選ぶ人、ヤギを好む人、それぞれにあらわれてくるのは、
もともと、人間の中に動物がいると思えば、たしかにわかりやすい。




 
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2007年01月11日

中村浩著「糞尿博士・世界漫遊記」

「糞尿博士・世界漫遊記」現代教養文庫 (株)社会思想社 1972年第1刷
アンソロジー「滑稽糞尿譚」の中から
1月8日に紹介した「ゾウの大クソ」の元になった本。
古本サイトにいくつもあります。
注文した本が届いたので読みはじめました。すごい本です。
藻類=クロレラ研究の第一人者でした。

超超超・・・おすすめです。

中村浩氏以降、この分野は、どこまで進んでいるのでしょうか。
未開のまま放置されているとすれば、ワクワクものです。
すすめられているとすれば、どんなかたちになっているのか。
どちらにせよ、追跡したいですね。


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2007年01月08日

糞をパンに 安岡章太郎編著「滑稽糞尿譚」から 

トイレの本をなにかしら、年頭に読むことにしているが、
今年は、安岡章太郎編著「滑稽糞尿譚」をぱらぱらと開いてみた。
エッセイや短編小説を集めたものだ。(文春文庫、1995年2月刊)

数年前、この本を最初に読んだときは、編者の安岡章太郎の文章が印象に残った。
軍隊生活とトイレの体験を書いた文章だ。軍隊では、心休まるところはトイレしかなかったというものだった。しかも、ずいぶん劣悪な環境なのだ。毎回、糞尿の様子を調べる上官がいて、下痢などしていることがわかれば、厳重に注意されたという。
そんな軍隊生活は、たまらないなあと思って読んだ。
軍隊と排便排泄から平和を望む思想がうまれると思った。
自分が戦地にやられ、みじめなトイレ生活をさせらるとおもうと
戦争につながるすべての流れに反対しておかねば大変だと真剣におもった。

今年読んで、もう少し深く読んでみようと思ったのは、
中村浩「ゾウの大グソ」という文章だ。
今までは読んでいなかったのか、
関心がなかったため読み飛ばして忘れていたのか、
しかし、今年読んでみると、ずいぶん新鮮で印象に残った。

こんな文章がある。
「『クソの問題を解決せずして、インドの繁栄はあるか!』
わたしは、思わず、怒れるネールのごとく、声高にがなった。
すると、このインド青年は、急にショボショボしてしまった。敵は弱しとみてとった私は、
『インドには、2億頭にのぼるウシがいるはずである。このウシの垂れるクソの量は、年間1億6千万トンに達する。これは、インドにとって膨大な資源ではないか!』
と講義をはじめた。
『さて、この牛糞のうち40%、つまり6千トンが燃料として使われ、他の40%が肥料として使われ、残りの20%は風や雨が運び去ってしまう』
インド青年は、あっけにとられて、私の講義に耳を傾けていたが、
『たしかに、おっしゃるように、インドの農民はウシのクソの練炭でささやかに竃の煙を立てています。かれらの多くはひどく貧乏で、このウシのクソを買う金すらもことかいているのです』
と悲しそうに告白した。
『ネールの親爺がもし賢明ならば、人間や牛のクソの資源化をもっと積極的に考えるべきだと思う。インドの4億の人間と2億頭にのぼるウシのクソは、インドのもつ天与の資源である。クソをパンにする研究こそ、君ら若き化学者の考えるべき夢ではないか』
わたしは、ポンと青年の肩をたたいた。インド青年は、はじめて快活に笑って、
”That's a splendid idea!"(そいつはすばらしい考えです)
と叫んで、握手を求めてきた。」

長い引用になってしまったが、
ゾウやウシの糞を燃料だけでなくパンに(食料に)変換させようというアイデアである。燃料については、家の壁に張りつけて乾草させて使っているということは、わたしも知っていた。モンゴルやチベットなどでも家畜の糞は、立派に燃料としていかしている。これだけでもすばらしいと思っていたが、パンにまでするとは思ってもいなかった。いや、この思いつきは、冗談で話をおもしろくするために言っているのであろうと最初は思った。

しかし、この中村浩という人は、本気でやろうとしているようなのである。
中村浩 1910ー1980。元・日本藻類研究所長 と文末に書かれている。
ネットで検索してみるといくつかのトイレ関連書籍もあって、研究をつづけていたようだ。この「滑稽糞尿譚」の中に山田稔というフランス文学者の文章があって、その中に簡単に紹介されていて、どうやら本気らしいこともわかる。
ついでに言うと、スウィフト「ガリバー旅行記」について言及した山田稔の文章もとてもおもしろいが、この紹介は、別の機会にしたい。夏目漱石のスイフト論にまで発展していてわたしの能力の範囲を越えてしまう。

ともあれ、インドに触発されながら、糞尿の食物化の研究課題があって、すすめた人がいるということは、興味深いことだ。先に述べたように、燃料や肥料(液肥も含む)で活用するかたちはずいぶん多い。いや、それすら忌み嫌って、ひたすら河川や湖沼、海に流そうとしているのが、下水道や集落排水事業や合併浄化槽なのだ。処理という名の資源捨て、浪費なのだ。循環型社会といっても名前だけのことなのが実際なのだ。この面からの近代下水道の見直し・反省は絶対に必要なことなのだ。アジアやインドが、その先端に位置することは間違いない。
2002年以来のシャンティ山口とわたしの問題意識と努力もそこにある。

・・・というわけで、今年深めるテーマのひとつが見つかった。
だんだん調べていこう。



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2006年12月14日

憲法9条のこころ、芯の芯

昨日は風邪で午前中愚図り、寝ていました。
こんなときは本を読むにかぎります。

「楽園のつらい日々」デビッド&ミッキ・コルファックス著
森実真弓訳 農文協 1996年12月刊 を一挙に読み終えました。

アメリカのインテリ一家の田舎暮らしの体験を書いた本です。
著者は1970年前後の急進的政治活動が理由で大学の教職を追われます。
それで巡りめぐって、カリフォルニアの山中で自給自足の田舎暮らしをすることになります。
やがて、ときを経て、子ども4人のうち3人が、学校に通わなかったのに家作りや畑仕事、家畜の世話などで学び、また夫妻の「ホームスクール」の学習で
ハーバード大学に入学します。それで有名になって、本になったのだろうと推測されますが、感想としては、その部分(大学合格)がなくても、この一家の田舎暮らしの体験は、そのハードさにおいて、無計画と無鉄砲さにおいて、しかしやり遂げる熱意において、様々な具体的な経験蓄積でとてもおもしろいものです。

一家は、ほとんど無一文の窮地に立たされます。
この危機を救ったのが、ヤギと羊です。畜産農家として食べて行く方途をみつけます。ヤギの繁殖農家としてやっていくのです。その道を切り開いたのが、15歳の長男で、ヤギについての猛勉強をして近郷では知らぬもののない繁殖家になっていきます。好きである、好奇心がある、そして切迫した必要性がある・・・こんな条件が、彼の能力を学校に行く以上に引き出し育てたのでしょうか。
このあたりのことは、ヤギ好きにとっては必読かもしれません。
彼がハーバードにまず入学することになるのですが、大学などに行かずにそのままヤギの研究家になって、さらに研究を重ねたらよかったのにと思ったのですが、人のことなので、なんともいえないのが残念です。

でも読後の興奮は残るものの、やっぱりなんだかアメリカンドリームっぽいなあという気分も湧いてきて、そのまま真似しようとも思わないのはもちろんです。
なんといっても、そのハードな働きようは、とてもやってみようとは思えないものです。

寝転んでタフな本を読んだ反動で、もう少し自分好みの軟弱な本を読んで気分転換をはかろうと読んだのが、
「山口瞳『男性自身』傑作選 熟年編」
嵐山光三郎編 新潮文庫 です。
この本は、なんとはなしにぱらぱらと読んでおしまいというエッセイの集まりで風邪で布団にくるまって読むのに最適です。残るものもない。何度読んでもはじめて読んだ気になる。忘れていることもあるのですが・・・その中で例外がひとつ、いつかは引用して紹介しておきたい、自分もいつもすぐに読めるようにしておきたかった箇所があります。272頁です。「私の根本思想」と題されたエッセイです。

「いわゆるタカ派の金科玉条とするものは、相手が殴りかかってきたときに、お前は、じっと無抵抗でいるのか、というあたりにある。然り。オー・イエス。私一個は無抵抗で殴られているだろう。あるいは、逃げられるかぎりは逃げるだろう。
『○○軍が攻めこんできたら、家は焼かれ、男はキンタマを抜かれ、女たちは陵辱されるんだぞ』
 いいえ、そんなことはありません。私の経験で言えば、そんなことはなかった。人類はそれほど馬鹿じゃない。」

「人は、私のような無抵抗主義は理想論だと言うだろう。その通り。私は女々しくて卑怯未練の理想主義者である。
 私は、日本という国は滅びてしまってもいいと思っている。皆殺しにされてもいいと思っている。かって、歴史上に、ひとを傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったといったことで充分ではないか。」

「2兆9千4百37億円という防衛費を『飢えるアフリカ』に進呈する。専守防衛という名の軍隊を解散する。日本はマルハダカになる。こうなったとき、どこの国が、どうやって攻めてくるか。その結果がどうなるか。
 どの国が攻めてくるのか私は知らないが、もし、こういう国を攻め滅ぼそうという国が存在するならば、そういう世界は生きるに価(あたい)しないと考える。私の根本思想の芯の芯なるものはそういうことだ。」

「私の経験で言えばそんなことはなかった」と書いてあるのは、戦中派の著者の実際の経験として、山陰の軍隊にいたときに、「キンタマが抜かれる」という噂がながれたのに、そんなことはなかったという経験に根ざしています。冒頭に細かく書かれています。

私は、戦中派でないのでそんな経験から思っているわけではありませんが、この著者の考えに素直に共鳴できます。はい、おんなじですね、と手をあげるでしょう。憲法9条論議のいくつく先は、この「攻められたらどうするの?」です。憲法9条をかえたい人は、「平和のためにあなたは黙って殺されるの?」とたたみかけてきます。
「ハイそうですよ」と答えれば、すむことです、と著者はいっている。
この潔さがいいですね。人間としての理に叶っていると思います。
第一、歴史をちょっと勉強すれば「平和のために武装する」「平和を守るために他国に軍隊を押し出す」ということが、自国権益のためのとんでもない詭弁であったかはすぐにわかることです。本当に平和のためには、軍隊も武器も持たず、人と人のつながりをつくっておくこと、憲法9条をもつことを誇りにしてます、とアピールしておけば充分と思います。世界の人とつきあうのに、今の日本人はそんな恵まれたポジションをもっています。

アメリカにも田舎暮らしをしている人がいる。ヤギや羊が好きで飼うことに夢中になっている人がいる。ヤギの子どもが産まれるのにはらはらして、一喜一憂している人がいる。
私の行ったタイの山岳地帯では、豚が庭先で遊んでいる。子供達が鶏や子豚を追いかけている。この人たちとは、すぐに仲良しになれる。国がちがうからといって、国境があるからといって、利害が衝突するからといって、武器をもって押しかけるなど言うことは、とうてい考えられない。国というレベルで問題をたてるから、人の顔がみえなくなって、平気で軍隊や武器を持ちたいとなるのだろうと思います。

年末の忙しいときに風邪などかかって寝てしまうなんてなんと運の悪いことだ、今年の運は、もう残っていないなあと沈みこみかけましたが、2冊のちがう本を読めて、まあそうでもないか、よたよたしながら本の内容を反芻しておこうと思った次第です。



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posted by 村のトイレ屋 at 10:13| 山口 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月16日

石川達三著「日陰の村」読み終わる

やっと読み終った。途中、投げ出そうかと思った。結果的に読み終わらないほうがよかった。
暗い話だった。最後まで暗かった。
いい話、明るくなる話がひとつもない。最後にあるかと期待したが甘かった。
「カタルシス」とか「感動」とかそれに類する話も一切ない。
明るい日差しに向かって、伸びていこうというような人物は、
まるっきり登場してこない。
俗物的に「いい思い」をしたのは、出世した水道担当の役人と
高利貸しやその他あくどく農民からむしりとったり、機に敏で利にさとく奔走した人間だけである。さもしくのさばって、懲らしめられてもいない。

村長は、人がよく結局ただだまされただけで終わる。
6年間に陳情60回以上。「もうすぐだから」と担当の役人に愚弄されただけだった。
蓆旗(むしろばた)の抗議行動も一回あるが、若手のリーダーたちは身を崩してしまう。分断策に軽くつぶされる。金持ち土地持ちとまったく土地も金も持たない農民に分断される。

芽生えた恋愛も、娘を売る父親の身勝手と本人たちの優柔不断でつぶれる。娘を売った父親は、帰りに自責の念で酔いつぶれ崖から落ち事故で死んでしまう。娘は買い戻されたが、娘と恋人の男はどうなったか、小説的な示唆もない。

都会のエゴに役人を手先として、一寒村が、ずたずたにされた、切り刻まれて歯向かいも出来なかった、ということだけが残る小説である。ただ暗然とする。救いとか、教訓とかはない。
せめて恨み節のひとつも叩きつけて、
都会の人よ1000万大都市は、この山村のずたずたにされた犠牲のうえに乗っかっているのですよ、といいたいが、それも気弱い。
この小説だけ読んでいると「長いものには早く巻かれなければいけない」かのような、無力感が漂ってくる。
ここまで人間を愚弄した上に、東京の水がめが出来上がっているのかと思うと、うまいとかまずいとかでなくて、吐き気がして止まらなくなるかもしれない。
一方の、さもしさ、他方の無力さ。それが感染しないように祈るばかりである。読まなければよかったと本気で思う。歴史的事実を何かの要約で知って考えたほうがいいだろうと思う。

あらためて、戦後のダムのたたかいの到達点、蜂の巣城の室原知幸氏らの偉さを思う。私は、九州生まれなので、当時、少年時代、新聞を教師の解説や年上の従兄弟や友達や周りの大人たちの論評を聞きながら育った。
悪く言うものはいなかった。骨と筋が気持ちよく通っている。
戦前と戦後の人権感覚の違いなのだろうか。
ここに人々の基礎的なところでの権利主張の違いがあるからだろうか。
それとも著者の視点と構成がおかしいのか。
読みたいという人がいたら、とめることはしないが、
とくにすすめたくもない本だ。

松下竜一著「砦に拠る」を読み直してみよう。
どうにもこうにも気分の持っていきようがない。

水処理通信262号の編集後記で長峰さんが、
「高校生が追う ネズミ村と731部隊」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4876522979
をすすめている。全国各地を旅する長峰さんの酒場情報も
この編集後記の楽しみだけど、こんな本の紹介もありがたい。
ネットでうわさだけは聞いて気にはなっていたけれど、
後押しされるかたちで今日注文しておいた。



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posted by 村のトイレ屋 at 20:18| 山口 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月04日

富山和子著「水と緑と土」

魚屋のおじさんは、本好きで読書会をどうも開いているらしい。
こんどお会いしたときにどんなペースで開いているのか、聞いてみたい。
というのは、あったか村でも読者会を開いてもいいなあと思っているからだ。
場所は、あったか村の通称事務所の板の間。
雨が降ったときなど、ここでだべりあう。

先日の10月1日も弥富の蕎麦祭りに行って
蕎麦2杯を食べたら腹がくちて、作業意欲がなくなって、
雨が降っているのを幸い、みんなで雑談に終始した。
木材加工センターは、屋根がついているから屋内作業も可能だし
何かやってもよかったのだが、久しぶりに来た人もいて、
あれこれ楽しくしゃべりあった。

こんなとき、別に輪読会というほどかしこまらなくても
本一冊をおいてみんなでつつくというか、感想などを述べ合っても
いいなあと思った。でもやはり輪読がいいだろうなあ。

そして、そのときに適していると思ったのが、
富山和子著「水と緑と土」という本だ。
中公新書で、発行は、1974年だ。30数年前になる。
もう古典と言っていいかもしれない。

私がこの本がいいと思うのは
土を念頭においているからだ。
水と緑(森林)そして土壌。
土を大事にしない文明は、滅ぶという思想がはっきりある。
そして、
水と緑と土を一体のものとしてとらえている。

一章ずつじっくりと検討していくと楽しいし
おもしろいと思う。

最近思うことだけど、
単に情報を得る目的の本は、そのページをぱっぱと開いて
読み取ればいいのだろうけれど、
小説や味わいのある本は、腰をすえてじっくり読んだほうが
身につくようだ。ゆっくり読むほうが好きになった。わからないことや言葉も辞書を引く。考え込む。先へ進まない。

本は、多いからこの読み方だと読書量は増えないが、だから焦らないでもないが、どうせ読むならスルメをかじるようにじわじわとかみながら読むことにした。この本もそんな本だ。今度、読書会の話が出たら、まず一番に推薦しようと思う。



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posted by 村のトイレ屋 at 20:44| 山口 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月16日

多摩川と都市の物語

加藤辿著「都市が滅ぼした川ー多摩川の自然史」
 中公新書 1983年5月25日発行

約25年前の多摩川が、記述されている。
4半世紀前である。
本書の85ページに2枚の写真が並べられている。


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posted by 村のトイレ屋 at 20:20| 山口 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月15日

トイレ考古学の本

松井章著「環境考古学への招待」(岩波新書)
 ー発掘からわかる食・トイレ・戦争ー
 777円(税込)2005年1月 第1刷

環境考古学の一分野、トイレ考古学というのは、新しい学問分野のようだ。
トイレの遺蹟の土壌から世界で最初に寄生虫卵が発見されたのは、イギリス・ヨークで1981年頃のことだそうだ。銀行建設予定地の土壌を顕微鏡でのぞいている時、花粉や胞子にまじって、回虫の卵が発見されたという。(p51)
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posted by 村のトイレ屋 at 06:36| 山口 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月06日

「アルケミスト」

パウロ・コエーリェ著「アルケミスト」
(夢を旅した少年)(山川紘矢+山川亜矢子=訳) 角川文庫 552円
060906.jpg

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posted by 村のトイレ屋 at 22:35| 山口 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月25日

保屋野初子著「長野の脱ダム,なぜ?」(築地書館)

長野県の田中知事が選挙で落選して、
「脱ダム」の動きが、どうなるか、
長野では既にダム建設が再開される動きがあるそうですが、
それはひとつのエピソード的バックでしかなく
「ダムに頼らない河川のあり方」というのは、本質的な趨勢で
もう止めることはできないのではないか。
この本を読んでそう思いました。
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posted by 村のトイレ屋 at 07:35| 山口 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月23日

羽太雄平著「峠越え」(角川文庫)

小説を読んで、まだ読んでない人におもしろさを説明をするのは難しい。(結構手間がかかる)
読んだもので互いに感想を語りあうのは、気楽で楽しい。
ほう、と思ったところをメモしておくと あとで役にたつ。思い出して二度楽しめる。
というわけで、以下は、自分用のメモです。

キャラクターの対比が、とてもおもしろい。
主人公(榎戸与一郎)に、サブ主人公というか、対立役というべき(主人公の次によく出てきて個性にもアクがあって好きだ)奥山左十郎が、次のようにいう。

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posted by 村のトイレ屋 at 20:29| 山口 ☀| Comment(3) | TrackBack(7) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする