2017年12月10日

ラポート・トーク リポート・トーク  東照二著『選挙演説の言語学』

東照二著『選挙演説の言語学』
 ミネルヴァ書房 2010年 2400円+税  宇部市図書館で借りた。

「政治はことばである」というはしがきにはじまって、全文を紹介したいくらいの読みでのある良い本だ。
そして、実際にすいすいと読んでいけて、あっという間に読み終わった。

2010年の自民党政権から民主党政権への移行の時期の街頭演説を、著者が現場に足を運び、直接聞き、録音して、紹介し、分析とコメントを加えている。ツールは、社会言語学というのだそうだ。私は初めてそんな学問分野のあることを知った。頻出する言葉の数を調べて傾向を探る。一例をあげれば、私たちが、あの演説家は、上から目線でもの言う人だなあと感じる時、その根拠を使われる言葉の数で示している。

この本には、演説の手法が紹介されている。たとえば、小泉純一郎を演説家として高く評価しているが、その分析のなかでフォーマル、インフォーマルのスイッチ切り替えの多用をあげている。(p139)
この面では、すぐに役にたつ実用的な本でもある。
俎上にあげられている20人の政治家たちの、その後の変遷も興味深い。
民主党が、なぜ政権交代に成功し、なぜ政権運営に失敗したのか。
その視点からも読めると思う。

共感を呼ぶ演説は、ラポート・トークであるという説を柱に演説が分析されている。
ラポート・トークは、リポート・トークと対比されて、以下のように規定されている。
長いが引用しておく。

(麻生太郎の演説を検討して)
聞き手中心ということは、つまるところ、聞き手との共感を作り出すことにつながる。いわゆる、ラポート(共感)・トーク(rapport talk:情緒を伝え、共感を高めるような話し方)といわれるものを、いかに効果的にできるかである。麻生は、インフォーマルな「べらんめえ」調で、聞き手とのラポート・トークをしているかもしれつもりかもしれない。しかし、ラポート・トークが成り立つのは、(話し手でなく)聞き手が相手に共感をおぼえるときだ。(p64)

演説が、人を惹きつける要素は、パーソナライズする(個人的な話をする)、ヒューマナイズする(人間的な話をする)ことである。私たちは、政策中心のリポート・トーク(report talk:情緒ではなく情報を伝える話し方)よりは、情緒、感情中心のラポート・トークに惹かれていくのである。(p67)

 「ステーキ」という内容そのものではなく、「シズラー」という感覚的なことばが、私たちの心を開くのである。このような私たちの心を開かせるものをコミュニケーションの実践家であるバート・デッカー(Bert Decker)は、エモーショナル・ゲート(emotional gate)と呼んでいる。「情緒の扉」と訳しておこう。つまり、理論、理屈、情報、内容ではなく、感情、情緒のふれあいによって、私たちは心の扉を開くのである。どれだけ内容、中身を秩序立てて、論理的に長々と説明してもだめなのである。私たちは、そういった合理的なアプローチにはすぐには心を開かない。しかし、私たちの感性、情緒にうったえるものがあれば、ほんの短いことばで、即座に心を開くのである。
 これを別のいいかたでいえば、情報中心のリポート・トークではなく、情緒、共感中心のラポート・トークにこそ、私たちは敏感に反応し、惹かれていくのだといえよう。細かい情報、政策、数字、理論、長々とした説明、そいういったものに惹かれていき、情緒の扉を開ける人というのは、あまりいない。むしろ、私たちは、話し手の語ることばの中に、感覚的に、直観的に響いてくるような共通した経験、思い出、感情の高ぶりを感じたときにこそ、話し手に惹かれていき、もっと話を聞きたいと思うようになるのだ。自分に関係がある、つまり共感を持つことができるかどうかである。そして、共感とは理屈、情報ではなく、極めて感情的、情緒的なものなのだ。つまるところ、人を惹きつけるポイントは、リポート・トークではなく、ラポート・トークにある。(p153)


もちろん、ここでは、リポート・トーク的な要素がどうでもいいと語られているわけではない。
なんのために演説するのか、何が目的で味方を増やそうとするのかが、曖昧にされては本末転倒である。
しかし、私たちの演説や政治表現が、合理的なもの、理屈と理論、情報中心で、それを語り表現することに精魂使い果たしてしまい、本当に伝わったのか、相手に届いたのか、惹きつける内容があったのか、ということを反省するとき、上の指摘は十分検討されていいだろう。

感情と情緒に訴える手法と聞くと、私は、すぐにナチスや戦前日本の合理性抹殺の翼賛政治の宣伝を思い浮かべる。また、それと連動して今も使われている原発プロパガンダの数々を思い浮かべる。
上記の理論を単純に「はいそうですね」と受け入れるほど素朴ではない。

でもしかし、もう一度、私たちが人を惹きつける演説を行い、私たちの考えを多くの人に届けるにはどうすればいいのか?という問題に立ち返ってみると、やはり有益な視点と基準であることは間違いない。

演説にせよ、デモにせよ、ウォークにせよ、さらにプラカードを持って立つスタンディングにせよ、すぐに街の風景にされてしまって、仲間内の確認作業になってしまう。(悪いと言っているわけではない。その効果はやらないよりははるかに大きい)これを越えて、次のステップに私たちの市民運動が進むためには何が必要か?を考えたときに大きなヒントになると確信する。人の心に届いてこその演説であり活動であり、強い権力に抗い、味方を増やすことこそ、庶民民衆にとって必要なことだからである。

ラポート・トーク、リポート・トークについての詳しい解説は、著者の『社会言語学入門(改訂版)』の中で紹介されている。両者のちがいを女性と男性の会話のちがいで説明している。女性がラポート・トーク中心で、男性はリポート・トーク中心という規定がなされている。その部分だけ読んでみたが、思い当たる節もあれば、そうでもないこともあり、今後の宿題にとっておくことにする。街頭演説を中心に考えれば、この『選挙演説の言語学』を再読した方がよいと思った。

 
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2017年12月09日

沼は演説百姓よ  岩見隆夫著『演説力』

よく引用されることばだ。

沼は演説百姓よ
汚れた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺


浅沼稲次郎のある友人が、日労党結成当時に、以上のように評したという。
浅沼稲次郎は、1960年10月12日、凶刃に倒れた。
その追悼演説で、自民党の池田隼人首相が紹介している。
岩見隆夫『演説力』で、池田演説全文とともに読むことができる。(93,195)

「演説こそは、大衆運動30年の私の唯一の武器だ。
れが私の党に尽くす唯一の道である」と語っていたと池田は紹介している。

ここで言われている「演説百姓」とは、どんな意味だろうか?
ここに百姓がでてくることが、今一つ正確にわからない。
百姓、農業は、昨日の分類でいえば第一次産業、政治は何産業といえばいいのか?
迷路に入りそうなのでここは放置して、暇の時に考えることにする。

百姓という言葉を謙遜が入っているにせよ、
蔑視で使っているとは思えない。
逆に、この言葉を送った友人も浅沼本人も、誇りに思って使っているように受け取って間違いないと思う。
人々に直接働きかけて、演説で世論をつくる。
自分の語る言葉で社会を動かす。
それを農民が、田畑を耕す作業にたとえて、百姓と言ったのか。
それが、清貧の政治家のイメージと重なって定着したのか、
また、日本の農民農家の勤勉な姿と重なり、大衆政治家としての人気の原点になったのかとも考えられる。

さて、今の日本に演説百姓は、いるだろうか。
幸いなことに、思い浮かぶ人もいる。
マスコミがどうのこうのという暇があれば、街頭に立つ。
そこからのフイードバックで内容を磨く。

著者の岩見隆夫は、演説の復権を訴えているが、
松下政経塾的なことばだけを操る演説でなくて、
今必要なのは、本当に、庶民大衆の側に立つ演説百姓である。
そんな演説家が現れるように、宇部という街に舞台をつくっていきたい。

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2017年08月29日

「もし文豪たちがカップ焼きそばの・・・・」


「もし文豪たちが
カップ焼きそばの作り方
を書いたら」

 神田桂一 菊池良著 宝島社

いわゆる文体模写。
村上春樹のもの以外はみな面白かった。
こういうことに才気を発揮する人って
いいよなあ。


読みながら泥憲和さんを思い出した。
フェースブックにまだ残っていた。よかった。
https://www.facebook.com/norikadzu.doro?fref=ts
泥さんとは、「自衛隊を否定しない」という点で
直接、論争したかったなあ。
山口県へ来る予定があったのに来られなかった。

あの世でどうしているかなあ。
泥さんなら、この本を読んで、すぐに、
以下の連作に取り掛かるだろうなあ。

もし文豪たちが
モリトモ疑獄と安倍政権の倒し方
を書いたら



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2016年02月07日

中山聖子著『三人だけの山村留学』を読んで

山村留学を調べている。

福島・東日本の放射能汚染から子どもたちを守るために、大切なことは少しでも汚染から時間・距離とも遠ざけることだ。
もうすぐ2011年3.11から5年を迎えるが、そのことの大切さは変わらないばかりが、これからますます必要になってくる。1月24日、大雪をついて開催され250人もの人が集まった小出裕章さんの講演会の実践的な結論は、まさにこのことだ。子どもは、宝だ。子どもこそ未来だ。

チェルノブイリ原発事故の教訓に学んで、日本でも3・11以降、全国で保養プロジェクトが行われてきた。
山口県宇部市でも、チェルノブイリ支援を行ってきた市民グループの有志が呼びかけて、「福島の子どもたちとつながる宇部の会」(代表:橋本嘉美さん)が結成され、発達障がいの子どもたちにしぼった保養支援を行ってきた。下関市や山口市でも保養活動が蓄積されてきた。
地道に継続されてきたこれらの活動をさらに充実させるためにはなにが必要か?
その大きなヒントは、松本市で行われている松本こども留学の取組みだと思う。

保養と避難・移住をつなぐものは、親御さんに先行する子どもたちの長期避難だ。
それが、留学という形をとって行われれば、無理がない。
社会的にもすでにある程度定着した仕組みと蓄積がある。
そんなことを個人的には考え、仲間とも相談してきた。

図書館で借りた中山聖子著『三人だけの山村留学』を寝転びながら、ぼんやりと読んでいたら「・・・山口宇部空港に・・・」という記述があった。
「へぇ〜、この本の舞台は山口県か、東京の少年少女たちが、山口へ来る話か」とちょっと構えて、裏表紙に書かれている著者についてもみてみると、小川未明賞受賞、山口県出身、宇部市在住とある。

そのあとは、姿勢を正して(ウソです、やはり寝転んで)しっかりと熟読した。
舞台は、旧むつみ村(現、萩市)だと思われる。福島県葛尾村から避難している浅野さんたちが住んでいる阿武町の隣だから、私にも思い当たる地形だ。トマトが決めてだ。どこまでがフィクションかどうか、わからないけれど、展開には納得した。

そうだ、そうだ、そうなんだ、と応援しながら読んだ。
ここには、山口県の持つ底力が書かれている。
その内容は、この本を読めば、それぞれにつかめると思う。

2月11日〜13日、「語り部ふくしま」のみなさんとの交流会で、この本を紹介しようと思う。
そこで、山村留学や子ども迎え入れのことが、前進する話題が出ればいいなあと思う。

参考
松本こども留学
http://www.kodomoryugaku-matsumoto.net/






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2015年03月26日

【本のメモ】小田切徳美著『農山村は消滅しない』岩波新書2014年12月


(フェースブックに走り書きしたものに修正加筆しました。)

最近の政府発表やマスコミは、脅迫が多い。
薬の広告も脅迫めいたことが多いが、それはそんなものだと知ってしまえばまず騙されることはない。
「お上の言うことは信用するな」「右と言われたら一旦左を見よ」と祖父や義父にはずいぶん言われた。
最近の脅迫は、地方消滅論である。
「このままでは、あなたの町はなくなりますよ」
言われなくても、危機感をもち打開策を模索しているところへ、怒涛の追い打ちである。
大慌てで「地方創生」の予算をとって流れに乗り、原発もその裏で再稼動や新設を条件にさせられているのではないかと勘ぐりたくなるほどである。

だから、反論の本が出たことはとてもうれしい。

小田切徳美著『農山村は消滅しない』は、増田レポート「地方消滅論」への反論である。
帯に「地方消滅論が見落とした農山村の可能性」とある。
厳密には、地方消滅論が潰そうとしている農山村の可能性と言った方がいいかもしれない。

「どっこい、農山村はしぶくとくいきていく」実証と論考である。

鳥取県の担当者は、次のように語っているそうだ。147ページ。
「今までは地域が、国や県に地域づくりの理念を合わせてきたが、これからは国や県の事業が地域の理念に形を合わせなくてはならない」

知ったこと。
農山村への移住希望者は、若者の世代が増えている。
嵩和雄氏(NPO法人ふるさと回帰支援センター)の説明。180ページ。。
「2011年3月の東日本大震災は、大きなターニングポイントになった。それを契機に30歳代の相談者の割合が大きく増加し、とくにその世代のファミリー層が動き出した。・・・原発事故や首都圏直下型地震への不安から移住相談にきている者もあるが、むしろ農山村で地域に密着した暮らしをしたい、つまり『ライフスタイルの転換』を希望している者が多い」

非正規雇用の推進と軌を一にしていることも指摘されている。
都会が住み難くなっていることと並行している。

考えたこと。
「半農半X」よりも、もっと多業で生活していく「ナリワイ」という考えの可能性を深めること。
仕事を多様に考えていく方法。98〜99ページ。

 もともと農山村が農業だけでなく、多業なものであったこと。
農業だけに絞って統計処理や分析を行うことにそもそも無理があった。
阿武町の木村菊人さんから教えてもらったことと見事に符合する。
木村菊人さんは、竹の皮を販売して子どもたちを学校へやったといっていた。
林業家だが林業のサイクルは、一世代で完結しないので(収入として返って来ないので)さまざまな稼ぎを考えたという。すでに億単位の売上をあげているヒノキをつかった日本列島の地図パズルは、そのヒット作だ。

他に、中国山地の経験が追跡されている本なのでとても刺激的だ。

なんといっても鳥取県に学ぶ必要があると思った。
今、仲間と準備している、「おいでませ山口♪定住支援ネットワーク」も実に多くの先進事例を鳥取県は積み上げている。
「遅れている」は、逆にいつも先頭に立つ可能性があるということ。
いや、そもそも、進んでいる遅れているの価値観そのものを再考したほうがいいだろう。
原発がなくてもやっていける社会、安全に安らかに暮らせる地域つくり。

3・11のことを直接には書いていないが、その前後の農山村を考えるには、とてもいい本だと思った。
この本をもとに関係者とじっくり討論し智恵を出し合い、横につながって、都市間競争・産地間競争・地方間競争などに巻き込まれ踊らさせることなく、それぞれの地域が特色を出し合って、独自の方法を見出していけたらと思う。
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2014年09月14日

ほんのメモ)伊東光晴著『アベノミクス批判』4本の矢を折る 評者 藻谷浩介さん

「えっ、アベノミクスは、3本の矢でなかったの?」

「そう、いつの間にか4本の矢にしてしまったのかなあ。、
藻谷さんの書評では『蔭からナショナリズムの矢』」と紹介されているよ。
第4の矢というのは、著者の導入した批判の視点なんだね」

「3本の矢の破綻処理を4本目の矢が行う構図かな?」

「そうなんだろうね、
でも、逆かもしれないね、4本目のことをやりたくて、出来もしない3本の矢で国民をたぶらかした。
経済的利益誘導で、4本目の矢に導きたいという理解の方が、実際に近いのではないかなあ」

「でも、経済破綻を戦争に訴える、戦争のできる国する、ナショナリズム、これは伝統的な方法だから、破綻の結果としての4本の矢ということもあるかもしれないね。経済だけでなく、国内のうまくいかないことをごまかして、外にむかって敵対心を煽り、戦争に動員する。」

「その辺を読んでみたいね。」

「あれっ、まだ読んでないの?」

「そうだよ、毎日新聞の書評を今朝、読んで知ったの。
書評だけで十分勉強になるよ。藻谷さんの迫力ある紹介に感謝したいね。」

「ふ〜ん、そうか、僕は暇だから図書館で探してみよう。」

「なかったらリクエストしておいてね」



参考:今週の本棚:藻谷浩介・評 『アベノミクス批判−四本の矢を折る』=伊東光晴・著
(岩波書店・1836円)
毎日新聞 2014年09月14日  ◇若者よ、集団幻想抜け事実を語ろう
http://mainichi.jp/shimen/news/20140914ddm015070011000c.html



一部引用
〜〜〜〜〜〜〜
それでも「デフレ脱却」と煽(あお)る声は大きいが、物価が上昇に転じた2013年の小売販売額は139兆円。12年の138兆円と変わらず、国民や中小零細企業の大多数は、経費がかさむばかりで恩恵の実感はない。他方で三本の矢の陰から放たれた「第四の矢」、すなわちナショナリズムを煽り戦後政治のリベラル路線を終焉(しゅうえん)させる戦略だけが、粛々と進行している。今に似た戦前の空気と、その後の戦争の惨禍を身をもって経験した世代である著者は、これに渾身(こんしん)の憂慮を表明する。

 評者も懺悔(ざんげ)しなければならない。心筋梗塞(こうそく)で生死の境をさまよう経験をされながら、命を削って発信を続ける著者の思いに、力足らずの後進のはしくれとして、よく応えられていないことを。若者よ、集団幻想を抜け出し、勇気を持って事実を語ろう。若ければ若いほど、真珠湾攻撃にも似て出口戦略のない無謀な金融緩和の、頓挫した後の世界を生きていく時間は長いのだから。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


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2014年06月26日

 「楽観主義は、意思に属する」(アラン『幸福論』)

夜中に―私にとって10時を越えれば夜中である―電話をかけてくる友人は迷惑であるが、でも相手にしないわけにはいかない。このメール時代に電話だとなにかあったか、と、やはり出てしまう。

知人・友人が、立て続けに亡くなっていて、その連絡かとつい思ってしまうのだ。

今夜のは、暇な雑談だった。
発見してうれしくてメモ代わりに電話したのだという。

少し端折って書いておく。

============

「楽観主義者は、楽天家に生まれたもともとの性格の人間がなるのかとかと思っていたが、反対に悲観派は、悲観的な性格に育ってそうなってしまったのかととらえていたが、その前提には、人間はもともと明るい楽天的な性格を持って生まれるのではないかと漠然と認識していて、けれど、どうも違うようだと最近感じていたら、
今日、アランの幸福論をたまたま読んで、考え違いをしていたことにはっきり気づいたよ。

こう書いてあるのだ・・・・読むよ。

93誓うべし

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意思に属する。成り行きに任せる人間はみなふさぎこんでいるものだ。
根本的には、上機嫌などいうものは存在しないのだ。しかし、正確にいえば、気分というものはいつでも悪いものであり、あらゆる幸福は意思と抑制とによるものである。


どう、わかったかい?」
「わからない」
「困ったなあ、あのねぇ、世の中は辛いことばかりなのよ、どう考えてもたまにしかいいことはないの。棚からぼたもちなんて、めったにあるものではないの。だから、冷たい辛気臭い、矛盾だらけの世間を生き抜こうと思えば、幸福になろうという強い意思がいるということだよ、
だから、生まれついての楽観主義者はいなくて、幸福をつかもうとする強い目的を持った生き方が必要になってくるというわけだよ」

「ふ〜ん、まあよく聞く努力しなさいという話と同じようだけど」

「じれったいなあ〜、そんなことじゃあないんだよ。辛い現実、悲観主義に流される人間、それを前提にして、そのなかから、冷静な認識と強い意志をもって幸福をつかもう、と言っているのだよ」

「幸福って?」
「それをアランは幸福論で書いていrるのさ」
「ふ〜ん、一言でいえば・・・」
「一言で言えるわけ無いだろう、一冊の本に書いてあるものを・・・」
「ふ〜ん、じゃあ、ぼくにはわからない、ごめん、もう眠いから明日にして・・・」
「ああ〜わかったよ、友達甲斐のないやつだなあ、せっかくの大発見を教えてやっているのに。いいよ、でも、どっかで本を手にいれて読んどいてよ、いいね」



アマゾンだけ載せておく。寝ます!

http://amzn.to/1q9KRLt

アラン幸福論.jpg




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2014年06月24日

山口瞳著『男性自身』熟年編 再び

最近の論議で、以前に、山羊の本の感想と並んで書いたことを思い出した。
http://atta-an.seesaa.net/article/29597299.html

集団的自衛権の行使と安倍政治の暴走。
このままでは、戦争を準備する国どころか戦争そのものに突っ走りかねない。
憲法9条の解釈改憲、閣議決定と並行して、実は実質的な戦争遂行がなされているのではないか、ある日それが姿を表すのではないのか、そちらも心配だ。

この問題では、多くの人と危機感を共有する。
その中で、一言指摘したいのは、憲法はあらゆる戦争と軍備を否定していることだ。
集団的自衛権行使に反対する論理に多くの人に参加してもらいたいあまり、自衛のための戦争や軍備はいいのだ、自衛隊の手放しの賛美や肯定に走ってはならないということだ。

あくまでも、憲法に忠実でありたい。
勝手な文章の解釈は、やめたい。

そんな意味で、山口瞳さんの文章を転載・再引用しておく。
福島の原発事故を起こしてしまって、世界中に迷惑をかけている分、著者の時代のように自慢できないが、東洋の端っこに平和を愛する小国がある、国単位ではない人々とのつながりを求めている人間がいることだけは伝えたいものだ。
戦争は嫌だ。殺されるのも、いやだが、戦争とは人を殺す羽目になるものだ。しかも、若い世代をそこへ追い込むことになる。放射能汚染を拡散して、子どもの人権を蹂躙しておきながら、今度は戦争を煽る。こんな流れに抵抗したい。山口瞳さんの文章が好きな私は、せめてこの文章が巷間、静かに広がることを期待する。


山口瞳熟年編.jpg


「私の根本思想」272頁。

「いわゆるタカ派の金科玉条とするものは、相手が殴りかかってきたときに、お前は、じっと無抵抗でいるのか、というあたりにある。然り。オー・イエス。私一個は無抵抗で殴られているだろう。あるいは、逃げられるかぎりは逃げるだろう。
『○○軍が攻めこんできたら、家は焼かれ、男はキンタマを抜かれ、女たちは陵辱されるんだぞ』
 いいえ、そんなことはありません。私の経験で言えば、そんなことはなかった。人類はそれほど馬鹿じゃない。」

「人は、私のような無抵抗主義は理想論だと言うだろう。その通り。私は女々しくて卑怯未練の理想主義者である。
 私は、日本という国は滅びてしまってもいいと思っている。皆殺しにされてもいいと思っている。かって、歴史上に、ひとを傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったといったことで充分ではないか。」

「2兆9千4百37億円という防衛費を『飢えるアフリカ』に進呈する。専守防衛という名の軍隊を解散する。日本はマルハダカになる。こうなったとき、どこの国が、どうやって攻めてくるか。その結果がどうなるか。
 どの国が攻めてくるのか私は知らないが、もし、こういう国を攻め滅ぼそうという国が存在するならば、そういう世界は生きるに価(あたい)しないと考える。私の根本思想の芯の芯なるものはそういうことだ。」


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2014年01月25日

むのたけじ著『一日一言』   動詞 4月29日から


ブログをサボっています。

数人から電話をもらいました。

「山口県知事選に飯田哲也さんが出馬断念したからショックで寝込んだのか?」

それに近いことを他にも言われました。

めったにブログも休めませんね。

気を落としたことは事実ですが、寝込んではいません。

昨日も、県庁前サイレントアピールを仲間と行ってきました。

飯田さんには、本当によくやってもらったと思っています。

ここまで、山口から政治文化を変える、ある種の陣地を築いていただいたのです。

本当に感謝しています。


さて、ここしばらく、次のようなことばを、山羊が何度も反芻するように、味わっています。


むのたけじ著『99歳一日一言』 (4月29日から)


動詞 と題しておきます。以下、引用。(改行は、私です)


前に行きたいなら歩け。

間に合いたいなら急げ。

川を渡りたいのなら泳げ。

求める心情は、それをすべて動詞に転化させよ。

動詞を動かせ、話の筋がそれで通り始める。




引用終わり

さあ、今、ふさわしい動詞は、なんでしょう?

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2013年10月04日

井上ひさし『イソップ株式会社』 読書はことばを鍛える、鍛えられたことばがこんどは頭を・・・

紹介された本

今日は、一日、このことについて考えて過ごそうと思う。


「わたしたちがのんびりお湯につかるより、あなた方がしっかり本を読む方が先です。これが老人会の出した結論なんですよ。読書はことばを鍛える、鍛えられたことばがこんどは頭を鍛える、そしてその鍛えられた頭がものごとをよく考える・・・これがすべての順番というものでしょう」


井上ひさし著『イソップ株式会社』 中公文庫 2008  233ー234




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2010年12月25日

循環論

メモ

安藤昌益の言葉

「人ハ米穀ヲ食シテ糞ト為シ、穀ハ人糞ヲ食シテ実ヲ倍ス、
穀ト人ト食ヲ互イニシテ常ナリ」。

寺尾五郎著『論考 安藤昌益』21p 



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2010年11月27日

本が届く!今、本といえば、

伊沢正名著『くう・ねる・のぐそ』(山と渓谷社)届く。
緊張が走る。
ざっと読む。
すご人がいたものだ、
糞尿に関わる人類の歴史をひっくりかえすぞ。

A級常時携行本だ。
禁断の袋とじ16頁は、まだ開いていない。






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2010年11月09日

広瀬隆著『二酸化炭素温暖化説の崩壊』

広瀬隆著『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社新書)は、
今、ネットで評判になっているアニメ
「源八おじさんとタマ」の2作目の
http://bit.ly/cC5VH6
下敷きになっている本だ。

赤祖父俊一氏の紹介などとても丁寧にデータを調べていると思った。

エネルギー問題での「分散」「小規模化」は、下水道にも通じると思った。




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2009年11月29日

富山和子著『ひみつの山の子どもたち』

サブタイトルは、自然と教育です。

富山和子さんの子ども向け(とされている)本は、
『生きている』シリーズです。
2009年10月に発行された『海は生きている』で全5巻が完結しました。
それに、もう一冊、『ひみつの山の子どもたち』(童話社)があります。この本はちょっと他の本と違っていて、総合学習の実践記録の本です。長野県南駒ケ岳のふもとにある七久保小学校淵上学級の1年生から3年生までの記録です。

表紙裏に地図のイラストがあって、学校から「ひみつの山」までは、ずいぶん距離があります。この道を歩いていくだけでも、楽しいだろうなあ、と思ってゆっくりみると、道に説明がついていて、それぞれ遊びと学習のポイントが書かれています。

私が一番おもしろいと思ったのは、ロープの川渡りです。
川を渡るのに橋も考えるのですが、実際私たちは、あったか村ではかなり工夫して丸太で橋をかけたのでした。
木でつくった橋は、それはそれでおもしろく、評判もよかったのです。それで、昨年作ったものが大雨で流されたとき、森の中のコンサートのために、もう一度作り直したのです。

七久保小学校の子どもたちはどのようにしたのでしょう?

「・・・あのジャングルをたんけんしたいとと、みんな思っていたのでした。
 まず、どうやって川をわたるかです。
 はしごをわたす案。ロープをつる案。いかだでわたる案。
 三つの案がだされました。なんと、きのうのうちに、ひもをもはばて、川はばをはかってきた子たちもありました。幸枝(ゆくえ)もその一人です。幸枝(ゆくえ)はわざわざやってきて、先生に注文をしています。
 「あのねえ、ロープをわたすときねえ、川はばぴったりにロープを切らないで。」
 きいてみると、両はしのしばりつける部分(ぶぶん)の長さも、ちゃんと計算にいれておくようにというのです。そばから真人(まさと)も、先生に注意をしています。
 「ロープだと、きれるといけないからはりがねをまいて、じょうぶにするといい。」
 「なにしろなあ、うちの子たちは、おれにせわをやいてくれるんでなあ――。」
と先生もうれしそうです。
    115ページ〜116ページ

 このロープ渡りは、かなり危険で「ちょっと命がけ」だったようです。というのは、途中で落ちる子がいるからです。下は、石が敷き詰められていて痛い。それで、さらに安全な工夫をします。
それは本文を読んでください。

富山和子さんの『森は生きている』に感想を書いて送り、交流がはじまったそうです。
また、この総合学習(ほとんどの授業が総合学習のようです。先生は朝来て、さあ、今日は何をしようか、相談したり考えたりしているようです。自分で考案するのだから力がいるでしょうねえ。)は、保護者にも先生の書く「たより」によって知らされ、支持されています。子どもたちが、何よりもいききとして「朝早くから学校に行きたがる」そうです。
様々な探検(漢字探検)、俳句、作詞、作曲、・・・「普通の授業」よりも学習としては実力がつく内容になって行きます。血肉化されると思います。
このメニューは、大いに学ぶ必要があると思いました。

あったか村のようなところこそ、取り込むべきだと痛感しました。

ずいぶん前に、畜産農家(酪農)と小学校の共同で実現した総合学習の報告を聞いたことがあります。そのときも、子どもたちが自分から進んで行動しはじめたと報告されていました。とてもすばらしいと思いました。

それにしても、子どもたちは「ひみつの山」とか「ひみつの基地」がすきなんですね。子どもたちの作った家の写真をみながら、私も「家出」して山に藁小屋をつくってこもったことを思い出しました。

ここの学校の子どもたちは、授業でそれをやっているんですから、楽しさも格別でしょうねえ。僕らの場合は、多少のやましさが味付けされていましたが。

この本のあとがきに富山和子さんが次のようにかいています。
大人に向かって書いています。

「もともと私が子どもの本を書くようになったのは、二つの理由からでした。一つは、ものごとを総合的に見るということは、頭のやわらかい子どものうちに訓練しなければ遅いということ。もう一つは、自然を理解するには、やはり子どもの頃からの、自然との肌のつきあいが必要であることを、大人の世界で痛感させられていたからです。」

自然と人間をトータルにとらえる。
水と緑と土をおなじものとして、つながりでとらえる。
そうした視点を子供向けの本で果たそうとしていることが、このことばによって理解できます。

12月11日に富山和子さんが宇部に来てくれます。
私たちのつつけて来た読書会を著者を囲む会として行います。
そして、講演と小野湖をめぐるフィールドワークを行います。

直接の課題は、水源地上流に産業廃棄物の最終処分場(安定型・素掘りの穴、谷間に埋設)ですが、さらに広く深く、水源と森林、川とダム、流域一貫、まちと村の関係あり方などを学べたらいいなあと思っています。

また、『生きている』シリーズにみられる豊富な知見と教え方も学べたらすばらしいだろうと思います。

富山ファンのみなさん、小中学校でテキストとして使った現場の先生方、ぜひおいでください。

 
12月11日 午後5時〜7時 宇部市総合福祉会館 セミナールーム(小)
12月12日 午前9時 宇部市小野地区 アクトビレッジおの〜小野湖畔〜大田川上流・支流
12月12日 午後1時〜4時半 事例報告と富山和子さん講演会
 宇部市文化会館 研修室





 





 
 


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2009年11月21日

願えばかなう)富山和子さん、宇部に

富山和子さんが宇部に来られることになりました。

『水と緑と土』の本の読書会を月一回のペースで開いていて、
「直接、会って聞きたいところだね」という疑問が
いくつか出てきていました。
仲間といつか来てもらいたいものだね、
と話していたのでした。

まさか、実現するとは、ホント夢にも思っていなかったのです。
10月15日に北九州市で講演があると、ある人が教えてくれました。
講演を聴きに行って、とてもすばらしいと思いました。
「水と緑(森林)と土を一体のものとして、むすびつけている。
水と緑と土の同義性と語っていました。
とくに、水と緑のなかで土の果たす役割についての言及は、とても新鮮でした。土だけが有機物を取り込んで次の生物の養分とすることが出来る。土に戻すことの循環論的な意味の高さ。直接、聞いてよく納得できました。

この点の欠落が、現代の弱点だと思います。
水源涵養の大事な森林地帯に、過疎が進行していることにつけこんで
産業廃棄物の処分場をつくっていく風潮。
産業廃棄物として都市から持ち込まれるものは、土を劣化させる・生物相を破壊するものばかりです。

立ち話でしたがお話をさせてもらい
サインをいただき、そのとき軽い気持ちで、
宇部にもきてください、とお願いしておきました。

その後、仲間と話し合って12月12日に小野湖の水を守る会の
結成記念集会を開くことになり、最適な人ということで
打診させてもらいました。

趣旨に賛同いただき、快くきていただくことになりました。

本当にありがたいことです。
願えばかなうといいますが、本当なんですね。

『水と緑と土』など、読める本は読んで
せっかくのことだから質問事項をまとめておこうと思っています。

講演会に先立って
富山さんを囲む会を開きます。

12月11日午後5時〜6時半
宇部市総合福祉会館 セミナールーム(小)

参加を希望される方は、私宛連絡ください。




posted by 村のトイレ屋 at 08:14| 山口 ☀| Comment(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

三浦しをん著『神去なあなあ日常』


更新を休んでいた間の記録の一部は、
「うべっちゃ」でご覧ください。
http://ubesns.jp/profile.php?key=14040
外部公開(登録会員以外でも読めます)です。


三浦しをん著『神去なあなあ日常』 徳間書店 2009年5月

あらまし。
母親と高校教師にはめられて強制的に森林の研修生にさせられた若者の手記という形をとった小説。
横浜の都市で育った若者が,三重県の林業地帯に入って送る山の生活。
冒頭、いきなり携帯電話のバッテリーを抜かれて捨てられてしまう。
最初は、まちへの逃亡を試みるが,失敗。
山の手入れの訓練と林業に従事する人びととの交流を通して、やがて落ち着いた日々を送るようになる。
村の昔からの祭りや林業の智恵が折り重なっていく。
定住するかどうか,さらに林業をつづけていくかどうかは
未確定のまま小説は終る。

感想。
都会の若者が、余儀なく山の田舎の生活を送るようになる。そこで都会にはない、今の日本が忘れてしまったすばらしさを見つけ,農山村のよさを知って、新しい自分を発見するというテーマである。
「余儀なくされる」という強制・半強制という契機を「自発的意志で山の生活に入る」とした場合は,どうなるだろうか。
その前提には、都市の若者に農山村をもっと知ってもらう必要がある。
きっかけになるPRや体験実習が必要だ。

知らない・知らされていないことによって、実に多くの若者がチャンスを逸しているのだと思うと残念である。
この小説は、その意味では,とても大きな役割をはたしていると思う。

もう10年になるだろうか、阿武町福賀の山の中に全寮制の若者向け森林学校を誘致したらどうだろうと話しあったことがある。実際には,この構想は深められてなくて、あったか村の村つくりに合流しているのだけれど、あったか村の中に「都会の若者の林業参加」という「神去村」の要素を取り入れていきたいと思う。

メモ。
タイトルのなかにある「なあなあ」とは、著書による造語で「まあまあ、ゆっくりいこうやあ」と言う意味らしい。タイ語の「マイペンライ」にも通じるようだ。「神去村」に対して,「神来村」をどこかにつくったらどうだろうと思う。なお,この本では,杉花粉症が林業地帯の林業従事者にも流行して困っている様子が書かれている。私の見聞では,杉花粉の飛び交うなかでも、山の地元では花粉症にかかっていないひとがほとんどだったので,地域によってちがうのだろうか,全国的には変わってきているのか,気になった。









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2009年06月17日

環境の本を読む会、第6回 

環境の本を読む会
第6回は、6月25日(木)午後6時〜9時です。
宇部市勤労青少年会館会議室です。
テキストは、富山和子著『水と緑と土』第6章 です。
主催:NPO法人うべ環境コミュニティ 
連絡先:西村誠(TEL0836-31-2026) 進行世話役:安藤(へちまや) 

懇談会や小さな集まりで
「一品料理持寄り」というのがあります。
ひとりは、自分が食べる分よりやや多目程度なのだけど
集まってみるとかなりの量になり、
しかも種類が増えて、楽しくなります。
私は、大好きです。

自分が持っていくものがないときでも、
恥ずかしがらずに参加するようにしています。
別のときになにかをもっていけると思っているからです。

環境の本を読む会も、まあ、こんなものだと思っています。
自分の関心あるテーマや疑問を本を読んで持寄ってくる。
テキストからでもいいし、新聞やテレビで見たニュースからでもよい。
持寄って出しあってみると意外な展開になるものです。
ごった煮の魅力が生まれるのではなかろうか、と思っています。


順番からいうと私のレポートです。

ひとつだけ心配があります。
前日6月24日(水)に「松元ヒロひとり立ち」のライブ公演があります。
午後7時から宇部市総合福祉会館。
昨年も見て聞いたのですが、笑いすぎてあごがはずれて3日はしゃべれませんでした。そんなことになったら、KRY熱血テレビの「肥溜めと畑」のビデオを見てもらおうと思います。

気楽にご参加ください。



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posted by 村のトイレ屋 at 09:47| 山口 | Comment(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月22日

「出過ぎる杭は打たれない」>小川美農里さん講演会

出る杭は、打たれる・・・これは日本の有名なことわざです。
何事かを積極的に行なったり、ある分野で頭角をあらわしたり、人とちがったことをしたときに、頭を抑えつけられること。

なぜ杭なのか、
大工仕事の釘ならイメージがわきやすいですね。
きれいに並んで板に打ちつけられた釘。
一本だけ跳ねて飛び出ている。
美的にも、機能的にも釘の頭を打って
ちんとおさえたくなります。

昔は、杭を土留めかなにかの工事で多く打って、
やはり飛び出る杭があったというのでしょうか。

でも、これが、人の社会に転用されるととんでもない抑圧的な、
相互監視的な言葉になってしまいます。
空気を読めない」考で書いたような日本社会の負のイメージです。

ちょっと変わったことをするとあざ笑う、
先輩が後輩をいびるときに正当化する、
失敗を責めて喜ぶ、まず欠点から指摘して絶対に誉めない
質問や感想を率直にのべることをためらって、
指名されるまで発言しない。
あいまいに笑ってごまかす。

自分のなかにこんな要素が、いっぱいあるからどんどん指摘できます。

でも、こんな相互監視と自主規制の気持ちの習慣を振り払って、
自分の一回かぎりの人生、他人の思惑を気にしないで生きていたいし、振るまいたいものですよね。


それで、新しいことわざがうまれました。

出過ぎる杭は打たれない!

それは、つい最近でた本のタイトルです。
そしてそこに詰められた人たちの生き方です。

『出過ぎる杭はうたれない―痛快地球人録』
安渓遊地・安渓貴子編著、みずのわ出版
http://www.mizunowa.com/book/book-shousai/kui.html

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前置きが長くなってしまいました。
その本の第1章に出てくる小川美農里さんの講演会が宇部市であります。
次は、第1章の目次です。そのまま講演の要旨といってもいいかもしれません。
==========
第1章 世界一周しちゃいました――看護学部生・小川美農里さん
1 世界一周を思い立ったわけ
2 世界の食事風景の紹介
3 美しい自然と人びとのくらし
4 ストリートで暮らす少女たち・エチオピア
5 平和な時間を共有する・スーダン
6 難民キャンプでの医療活動に携わって・パレスチナ
7 そしていま、私にできること
=============


講演会のチラシから

===========

第7回Freedom Toast Café

世界中を歩いて感じたこと

第7回「自由に乾杯カフェ」は、これぞ国際派!という学生さんが講師。
パレスチナ問題について、国際協力や異文化理解についてなど、参加されるみなさんにも随時質問や意見をいただきながら、映像を交えて紹介します。


とき: 2009年4月26日(日) 13:30−15:30
ところ: 宇部カトリック教会 Tel:0836(32)7575
(JR宇部線・琴芝駅から徒歩3分、県総合庁舎となり)
参加費: 300円
講師: 小川美農里(みのり)

申し込み、問い合わせ: 宇部市民活動センター(36−9555)
飯田(34−5484) 武永(33−3982)
主催:アムネスティ宇部  後援:宇部日報社、FMきらら


講師プロフィール
山口県立大学看護学部4年。アムネスティ・インターナショナル山口、
IFMSA(国際医学生連盟)、jaih-s(日本国際保健医療学会学生部会)に所属。
2007年、世界一周放浪にでかける。今までに訪れた国は40カ国。その間、
東アフリカで病院・孤児院でのボランティア、ホームステイなどをして、
できるだけ現地の人々と交流をとる。
2008年夏、パレスチナ難民キャンプにてUNRWA(国連パレスチナ難民
救済機関)のクリニックでボランティアをし、パレスチナ問題について
人々から学ぶ。
スペイン語、アラビア語、スワヒリ語も勉強中。
=================

主催者は、若者に多く参加してもらいたい、
時代の閉塞感をやぶる出口をともにあけましょう、
と呼びかけています。

会場で話も聞けて、話しあえて、
本も買えると思います。
関心のある人は、是非、どうぞ。





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posted by 村のトイレ屋 at 08:54| 山口 ☀| Comment(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月08日

ウンコの生涯生産量は?

昨日は、山口市徳地三谷で原健太郎さんの案内で、肥溜めを探すフィールドワークを行いました。3時間弱、4ヶ所ありました。現役として使われてはいませんが、原型を残していてとても貴重なものでした。
また、昭和初期にメタン発酵を利用したガス灯が使われていることが判明する大きな成果がありました。
山口ケーブルテレビが、随行取材をしてくれました。
放送日が決まったら案内します。

さて、別のところで書いた文章ですが、加筆訂正のうえ掲載します。

===========


atosenkai.jpg
山田風太郎著『あと千回の晩飯』 を読んで


なんでも計算して数字にして楽しむ人がいる。
山田風太郎著『あと1000回の晩飯』(朝日文庫)は、
そんな著者による本だ。
「あと3年生きるとして」と断って、夕食の回数を1000回だとしている。
それがこの本のタイトルだ。
食べる量を計算すれば、当然、排泄する量も計算したくなるらしい。
生涯ウンチ量を計算したところがある。
引用しておこう。

「また私の人体の数量計算になるが、人間が1日に排出するウンチは平均150グラムの由。すると80年では5トン近くの排出になる。
それだけ排出して、さて何をやったというより、ひょっとしたら人間の最大の事業は一生に5トンの肥料を生産したことではあるまいか、と考えたこともあったが、いつのころからみんな水洗トイレになって、この自己満足も空しくぞ失せたりける。」      p32〜33
 
人間は、約5トンの肥料・資源を生産することになるそうだ。
疑問に思う人は、検算するなり、自分なりの方法で計算してみてください。
ここでは、さしあたり5トンで通したい。

それは、人間の最大の事業である。
他に何をやったかは、考慮しなくても、
言ってみれば無為無策のうちに徒食の人生を終ってしまったと言われても
排泄だけは、行うわけだから、この事業を日々実行することになる。

と、これは、糞が肥料としていかされていた時代の話。
今は、水洗トイレ・下水道で(または浄化槽で)水路へ川へ海へ
流されて行くので、この自己満足にひたることもできないよ、
「この自己満足も空しくぞ失せたりける」と著者は嘆いている。

著者の言っていることを積極的なかたちで換言すれば、
肥料として使われれば、人間は生涯5トンの肥料を生産するのだから
それだけで生きている価値が十分あるよ、ということになる。
生涯生産量5トンは、どのくらいの田畑の肥料に役たつものか、
この計算は、どんな式を使うのだろう。
尿を足すともっと増えてくる。

山田風太郎や数字の好きなひとでなくても考えて見たくなるだろう。
いずれ、検討してみたい。

ここで大事なことは、水洗トイレで流してしまわないことだ。
いや、水洗トイレでもよいが、大地に還元して活用されることだ。
私も、あったか村では、大地還元のトイレをこころおきなく使っている。
このときはとても気分がよい。
普段住んでいる宇部市では、下水道へ流している。
使える資源を流しているのだから、心が落ち着かない。

私は、「村のトイレ屋」である。
農山村のトイレに「肥溜めと畑の関係」は最適だと思っている。
また里山再生、田舎暮らしのトイレには、とてもよいと思っている。
でも、「生涯5トン」の排泄量=生産量を都市住民もいかそうと思えば、
現行システムに取って代わる考え方と技術と担い手が必要であろう。
それも、はっきり射程に入れて、研究していきたい。




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posted by 村のトイレ屋 at 08:54| 山口 🌁| Comment(1) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月07日

モース「日本その日その日1」

学習ノート。
この本には、屎尿関係の本でよく引用される箇所がある。
たいがい途中で終っているので終わりまで書き出しておく。22p.
平凡社東洋文庫。3冊。1970年刊。
=========
東京の死亡率が、ボストンのそれよりすくないということを知って驚いた私は、この国の衛生状態に就いて、多少の研究をした。それによると赤痢及び小児コレラは全く無く、マラリアによる熱病はその例をみるが多くない。リュウマチ性の疾患は外国人がこの国に数年間いると起る。しかし我が国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本には無いか、あっても非常にまれであるらしい。これはすべての排泄物質が都市から人の手によって運び出され、そして彼らの農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかも知れない。我が国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物とから生ずる鼻持ちならぬ臭気は、公衆の鼻を襲い、すべての人を酷い目にあわす。日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役に立てる。東京のように大きな都会で、この労役が数百人の、それぞれ定まった道筋をもつ人々によって遂行されているとは信用できぬような気がする。桶は担い棒の両端につるし下げるのであるが、一杯になった桶の重さにには、巨人も骨をおるであろう。多くの場合、これは何マイルも離れた田舎へ運ばれ、蓋のない、半分に切った油樽みたいなものに入れられて暫く放置された後で、長柄の木製柄杓で水田に散布される。土壌を富ますためには上述の物質以外に尚函館から非常に多くの魚肥がもってこられる。元来土地が主として火山性で生産的様子に富んでいないから肥料を与えねば駄目なのである。日本には「新しい田からは少ししか収穫がない」という諺がある。
==================

いくつかことがわかる。
1、東京の衛生状態についてモースは研究した。
東京の都市としてのありかたに関心をもった。
「田園都市」「村の中の都市」「村の集まった都市」という表現をしている外国人もいたようだ。渡辺京二著「逝きし世の面影」(葦書房)
リュウマチ性の疾患に外国人がかかるのはなぜ?
2、彼我の衛生状態の比較を下水処理に求めている。ボストンは未処理で川に流している。「水生物を殺している。」
3、日本では都市から持ち出されて畑の土壌を肥やすために使われている。
東京では数百人のひとがこの仕事に従事している。「運び出している」としか書いていない。どこかに目撃したスケッチがあるかもしれない。
4、「蓋のない半分切ったような油樽に暫く放置され、長柄の柄杓で畑に散布される」・・・この箇所がとても大事なところだ。油樽の大きさ、放置の時間などがわかると完璧。このスケッチがあるとおもしろいと思ったが、3冊のどこにもそのスケッチはなかった。小屋の絵や働いているのは多いのだが残念。
5、日本の土地は痩せていて施肥が必要。これはどのような情報にもとづいたのだろうか。書かれている諺は、日本のどんな諺をさしているのだろうか。

著者は、覚え書きと写生をしなかった日はなかったという。
4年間で日記帳3500頁。
その理由は、観察と同時に興味あることを記録することの重大さを知っていた・・・そうでないとすぐに陳腐になってしまうから。
陳腐になってしまうというのは、新規さの印象が薄れて慣れて記録するに価しないように思ってしまうからだそうだ。p20

執筆の動機は、友人からの手紙。
1877年の日本。
「きみとぼくとが40年間親しく知ってきた日本という有機体」
「ベレムツナイツ(化石として残っている頭足類の一種)になってしまうぞ」・・・近代化される前の日本の姿の証言を意図している。
社会の総体を含めた農村ー都市、屎尿、家、風俗などの再構成が必要。


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posted by 村のトイレ屋 at 23:56| 山口 ☀| Comment(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする