2007年07月13日

山羊と道草

宮内さんのブログを読んでいたら、こんなことが書いてあった。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakacoco3/34225174.html#34225174
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山羊を飼い始めて「道草を食う」を実感しています。道草を食うと、目的地まで時間がかかります。でも、この道草を食う余裕があるほうが、ヤギにはとてもいい感じです。何かに追いまくられている人は、道草を食う余裕をなくしています。そんな人はぜひ、やぎか羊を飼ってみてはどうでしょうか。道草を食うことの大切さと、その姿を見るこちらの人間がとても癒されること感じて欲しいですね。
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 山羊に道草はとっても大切なんだという観察がおもしろいと思った。たしかに、山羊を見ていると道草を食ってばかりだ。どこに行くのか目的がはっきりしていないようにも見え、道草というより、単なるふらふら歩きではないかと思うときもあるけれど、そう判断すると間違う。私の好きな方向へ行こうとすると「違う!」と言ってコースを元に戻す。ちょっといい草があったから食べただけで、やはり目的があったような動きをする。そしてどの山羊もそうだけれど、一度行きたいコースを決めたら、少々のことでは言うことを聞かない。ロープを引っ張っても前足で突っ張る。後ろから押すと知らぬ顔をして、尻をくねらせ圧力をそらす。そのくせ、おいしそうに見える草があるとちょっと首だけ動かして食べる。よっぽどの草なのかと思ってしげしげみつめるが、とくに変わった草ではない。伸びた芽の先端だけをひょいとつまんで、「うん、どうかした?」という顔をして数歩進む。
 
 そんな様子をみながら、山羊の運動につきあうとき、私は何を考えているのだろうか、と振り返ってみると、実は何にも思い出せない、どうも何にも考えていないようだ。作業の段取りを考えているとか、懸案事項の検討をして結論を出したとか、なにかあってもよさそうなものだけれど、何にもない。車の運転中は、よくアイデアが浮かんで困るときがあるが、停めてメモしたこともあるからやはり考えながら運転していることになる。でも、山羊の散歩の場合は、そんな記憶がゼロだ。

 話は違うが、ある目的地にいく場合、コースの選択のときに、ふたつのパターンがあるようだ。ひとつは、一度走った道は、経験があるから様子がわかっている。だから次も通るようになるパターン。
 もうひとつは、一度通ったコースはもう知ったわけだからおもしろくない、別のコースを使いたくなるパターン。いつかある人と話していて、その選択になったときに、その人は迷わず、前者だった。「考えなくてすむので効率がよい」という理由だった。
 私の場合は、振り返ってみると後者だ。いつも何か一本でも新しい道がないと気持ちが落ち着かない。出来るなら全コース変えたいが、そんなにルートがあるわけないから、ついつい遠回りになってしまう。あるいは、わざと行き止まりの道を入って引き返すというような無駄なことになってしまう。ガソリン代が高騰している今時分にはいい癖でなくて、もったいないなあと自分でもつぶやく。
 
 道の選択だけでなく、年中行事の決め方にもそれが出てくる。昨年の日記かメモを月始めなどに見て、それで決めていくのだそうだ。反省点も書かれていて、行事設定など間違いが少なく、たんたんと進められるそうだ。この点でも、私は、そんなやりかたが、嫌いでというか出来なくて、メモなどをみるもののそれは去年やったからもう今年はやらない、何かおもしろいことはないか、と考えている。

 結局、このふたつの違いは、性格というか人生に対する態度の違いというか、なにかしらあるような気がする。一方は、安定性と効率を重視する。他方は、好奇心と新しがりやが中心になっている。変わったもの、何か新しいものが目に触れないと落ち着かない。しかしこれも、すっきりふたつに分類できるというものでなくて、ひとりの人間のなかにどっちも同居していて、それぞれあらわれ方に強弱があるだけかもしれないとも思う。

 あったか村ってなんですか?とよく聞かれる。何をめざしているんですか?とも聞かれる。はじめたころ、こんな質問をテレビカメラの前でマイクを出されてされたことがある。「環境村で工房村ですよ」と自分でも意味不明なことをもぐもぐと何か答えたけれど幸いなことに放送されなかった。「山羊や羊を飼って、道草にゆっくりつきあうことですよ、人生の道草の場ですね」と今なら答えるかもしれない。でも、この方がもっとわかりにくいだろうなあ。結局、宮内さんのいうように、山羊か羊を飼うしかわかってもらえないのかもしれない。
  
posted by 村のトイレ屋 at 23:18| 山口 ☔| Comment(7) | TrackBack(0) | 山羊・羊とチーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そう! たしかにヤギと一緒にいるとき、何も考えていません。
わたしも、なんでそうなるんだろうと不思議に思ったことがあります。
わたしは瞑想をしますが、その感覚とすごく似てます。もちろんヤギを見ながら、ヤギと遊びながら、かわいいなあとかバカだなあとか、いろんなことは考えるのですが、心に強く残ったりあとを引くようなことは何も考えていない。
だからヤギと触れ合うと、なんだかスッキリしてるんです。

Posted by はたかおり at 2007年07月14日 09:04
そうか、瞑想と同じ感覚なんですねえ。
なんだろう、この不思議な心地よさは、と前から思っていました。
Posted by へちまや at 2007年07月14日 12:29
私も!!(笑)
これ読んで、まさしく私もだと思いましたよ!
ただ、ぼぉーとヤギのそばに突っ立って、何時間でもヤギを見てる。
あの草おいしいのかなぁーとか、そういう事は考えてるんだけど、そのほかの世の中の雑念?!は頭の片隅にもありませんね。
最近は、そんな時は私もきっとヤギになってるだと思っています(笑)
せかせか生きる人には、ぜひヤギを飼ってもらいたい。
Posted by サチコ at 2007年07月17日 22:52
瞑想状態、3人目ですね。きんぞうさん(宮内さん)も入れると4人目ですね。

「山羊を見ているとすぐ日が暮れそう」と来た人が言いますね。
禅寺にこもるよりいいのではないでしょうか。
あったか村山羊禅院を名乗ってみようか。
Posted by へちまや at 2007年07月18日 07:43
まったく、わたしも何も考えない。ただ、山羊の思うままに任せているだけ。それを見て、ほんとに何も考えていない。忙しいのは誰も同じだけど、山羊の道草を食うのを見るときは、空っぽなんだ。これこそ悟りの世界なのかもしれない。山羊を飼うことは、その悟りの境地にすぐに入れる近道かもしれない。いや、やっぱり道草を食うから近道ではない。
Posted by みやきん at 2007年07月19日 18:13
きんぞうさんへ。
はたかおりさんは、
山羊神社をついに創設されたそうな。
はたさんのブログ、mixi参照。
「いいんじゃない神社」というそうな。

山羊の里には、放浪山道草宗山羊禅寺を開きましょう。
修行場はそこらの道です。
Posted by へちまや at 2007年07月20日 09:43
山羊神社本宮は、実は右田農園さんに建設される予定なのです。
右田農園HP
http://www2.odn.ne.jp/migita/index.html
いまHP改装中なので、山羊神社建設予定地が記された農園内の地図が見当たりませんが・・・。
でもなかなかつくって下さらないので、わたしが先につくってしまったというわけです。
ちゃんと本宮に許可もいただいています(事後承諾?)。
やはり山羊好きとしては、聖地巡礼をしたいですよねー。
日光山のように、お寺と神社、仲良くしましょうね^^
Posted by はたかおり at 2007年07月21日 16:24
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