山羊と羊の番をしていると、以下のような会話になることが多い。
A 通りがかりの人
B 山羊・羊番をしている私
A「あのひとたちは、一日中あ〜して食べていますが、楽しいのでしょうかねえ」
B「苦しそうにしていないから楽しいんでしょうね。
本当によく食べますよね、見ていると食べているか、反芻しているか、それとも昼寝しているかですね。
草を食べている時間が一番多いようですね」
A「草の栄養効率が悪いんでしょうかねえ、いつも食べていないと体力を維持できないというのは・・・人間は3食決まった時に食べるだけで一日中食べ続けなくても他のことができますからね、食事の栄養効率がいいんでしょうねえ。
これで人間の文明は栄えているわけですよ」
B「でも、食事をしない他の時間は、汗水たらして働いておカネを稼いで、そのおカネで結局、食べ物を買うわけですよね。直接、すぐ草を食べたりして食事をするよりも遠回りですよね。一日、食べるだけが許されるのなら、そっちもいいのではないかと私は思いますねえ。
食べるだけの生活は苦痛ですかねえ。
A「さあ、どうでしょうか。それは、山羊や羊と同じレベルに人間がなることで、私はやはり、食べるだけの暮らしはどうかと思いますね」
B「まあ、常識的にはそうでしょうね。私は、山羊や羊が食べているのを見るだけで楽しくて一日ここにいても飽きないのですが、やはりそれも3食摂っているからできることですからねえ。」
いつもは、ここで会話は何となく終わる。(そんなにみんな暇なわけではないのだ)、たまたまこの日は、私は、山羊番をしながら時間があったら本でも読もうと思って、適当に持ってきた文庫本を適当にぱっと開いたら、「人類には、ひとつ大きな欠点がある。絶えず腹がへることです」という言葉が目に入った。
で、私の中では、尾を引いていて考え続けることになった。
ちなみにこの本は、竹内好編著『魯迅評論集』(岩波文庫)。
この言葉のあるページは、144頁。
「ノラは家出してからどうなったか」にある。
魯迅は、腹をへることを欠点とみているようである。
食べることまでを欠点と言ってないが、楽しいことだとも言っていない。
欠点を欠点として放り投げているような突き放したところがある。
付け加えると、この言葉の前には、「ですから、ノラのためには、金銭――高尚な言い方をすれば経済ですが、それが一番大切です。もちろん、自由は、金で買えるものではありません。しかし、金のために売ることはできるのです。」という文章があって、「人類には、ひとつ大きな欠点がある。絶えず腹がへることです」と続いて書かれている。
だから、食べることそれ自体よりも、食べるために働くこと、経済のこと、経済的な自立のことを論じているので、山羊やヒトが食べることを楽しむというレベルの問題と、違う話になってはおかしいかとも思う。
山羊や羊と離れて独立に考察すべきであって、混ぜこぜにするなと言われればそれまでだが、しかし、どこかでつながっている問題だという気もする。宿題ですね。
どっちにせよ、普通に楽しく食べられるのいいことだ。
どっちにせよ、山羊や羊が、せっせと草を食べているのを見るのは、楽しくていいことだ。
2018年11月13日
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