若者の冒険心や探究心は、体力の勢いと元気さで実現され、
高齢者の場合は、反対に衰え病みがちになる体を、気力と意志の力で励まして生きていくのだという意味。
この言葉は、多くの人に当てはまるかどうかは、わからない。
体力だって、気力だっていろいろあろうからだ。
青年の純粋さと強い行動力と言って一般化していいかどうかも最近は疑問だ。
老人の積み上げてきた経験とそこから生まれる狡知さといっても、新しい時代に通じるかどうかも疑問だ。
昔、屋久島に行ったときに、山中の友人の近くに住むある人が、仙人のような暮らしで「私はカスミの食べ方を伝授できる」と冗談を言い、しかし、実際は、「豊かな青春 みじめな老後を覚悟しているのよ」と自嘲気味に、しかし明るく語っていた。
なんでも海外放浪の末に屋久島に住み着いたのだそうだ。
「豊かな青春 豊かな老後」 「みじめな青春 みじめな老後」 「みじめな青春 豊かな老後」「豊かな青春 みじめな老後」
少なくとも組み合わせは、4つはあるわけだけど、「みじめ」といい、「豊か」といっても、経済的なお金の問題を指すことを除けば、厳密にはどうでも取れる言葉なので、(お金の問題は大きいが)
結局、本人の主観の問題といえる。幸福とは何か?という話に似てくる。
と、ここまで書いて、高校時代の友人のことを思い出した。
会うといつも、ランボーの詩を読んでくれた。私が聞かなくても、熱っぽく朗読してくれた。
私はどっちかというと散文的な性格で、詩には興味がなく、ひたすら小説を読むばっかりだった。
後年、そのランボーが輝かしい詩人としての青年時代とうって変って、貿易商になったという話を聞いた。
彼の場合は、自分の人生についてどういう感慨を持っていたのだろう。
それと、私にランボーの詩を読んでくれた友人は、今どうしているのだろう。
もう50年は、会っていない。
2018年05月28日
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