2017年12月10日

ラポート・トーク リポート・トーク  東照二著『選挙演説の言語学』

東照二著『選挙演説の言語学』
 ミネルヴァ書房 2010年 2400円+税  宇部市図書館で借りた。

「政治はことばである」というはしがきにはじまって、全文を紹介したいくらいの読みでのある良い本だ。
そして、実際にすいすいと読んでいけて、あっという間に読み終わった。

2010年の自民党政権から民主党政権への移行の時期の街頭演説を、著者が現場に足を運び、直接聞き、録音して、紹介し、分析とコメントを加えている。ツールは、社会言語学というのだそうだ。私は初めてそんな学問分野のあることを知った。頻出する言葉の数を調べて傾向を探る。一例をあげれば、私たちが、あの演説家は、上から目線でもの言う人だなあと感じる時、その根拠を使われる言葉の数で示している。

この本には、演説の手法が紹介されている。たとえば、小泉純一郎を演説家として高く評価しているが、その分析のなかでフォーマル、インフォーマルのスイッチ切り替えの多用をあげている。(p139)
この面では、すぐに役にたつ実用的な本でもある。
俎上にあげられている20人の政治家たちの、その後の変遷も興味深い。
民主党が、なぜ政権交代に成功し、なぜ政権運営に失敗したのか。
その視点からも読めると思う。

共感を呼ぶ演説は、ラポート・トークであるという説を柱に演説が分析されている。
ラポート・トークは、リポート・トークと対比されて、以下のように規定されている。
長いが引用しておく。

(麻生太郎の演説を検討して)
聞き手中心ということは、つまるところ、聞き手との共感を作り出すことにつながる。いわゆる、ラポート(共感)・トーク(rapport talk:情緒を伝え、共感を高めるような話し方)といわれるものを、いかに効果的にできるかである。麻生は、インフォーマルな「べらんめえ」調で、聞き手とのラポート・トークをしているかもしれつもりかもしれない。しかし、ラポート・トークが成り立つのは、(話し手でなく)聞き手が相手に共感をおぼえるときだ。(p64)

演説が、人を惹きつける要素は、パーソナライズする(個人的な話をする)、ヒューマナイズする(人間的な話をする)ことである。私たちは、政策中心のリポート・トーク(report talk:情緒ではなく情報を伝える話し方)よりは、情緒、感情中心のラポート・トークに惹かれていくのである。(p67)

 「ステーキ」という内容そのものではなく、「シズラー」という感覚的なことばが、私たちの心を開くのである。このような私たちの心を開かせるものをコミュニケーションの実践家であるバート・デッカー(Bert Decker)は、エモーショナル・ゲート(emotional gate)と呼んでいる。「情緒の扉」と訳しておこう。つまり、理論、理屈、情報、内容ではなく、感情、情緒のふれあいによって、私たちは心の扉を開くのである。どれだけ内容、中身を秩序立てて、論理的に長々と説明してもだめなのである。私たちは、そういった合理的なアプローチにはすぐには心を開かない。しかし、私たちの感性、情緒にうったえるものがあれば、ほんの短いことばで、即座に心を開くのである。
 これを別のいいかたでいえば、情報中心のリポート・トークではなく、情緒、共感中心のラポート・トークにこそ、私たちは敏感に反応し、惹かれていくのだといえよう。細かい情報、政策、数字、理論、長々とした説明、そいういったものに惹かれていき、情緒の扉を開ける人というのは、あまりいない。むしろ、私たちは、話し手の語ることばの中に、感覚的に、直観的に響いてくるような共通した経験、思い出、感情の高ぶりを感じたときにこそ、話し手に惹かれていき、もっと話を聞きたいと思うようになるのだ。自分に関係がある、つまり共感を持つことができるかどうかである。そして、共感とは理屈、情報ではなく、極めて感情的、情緒的なものなのだ。つまるところ、人を惹きつけるポイントは、リポート・トークではなく、ラポート・トークにある。(p153)


もちろん、ここでは、リポート・トーク的な要素がどうでもいいと語られているわけではない。
なんのために演説するのか、何が目的で味方を増やそうとするのかが、曖昧にされては本末転倒である。
しかし、私たちの演説や政治表現が、合理的なもの、理屈と理論、情報中心で、それを語り表現することに精魂使い果たしてしまい、本当に伝わったのか、相手に届いたのか、惹きつける内容があったのか、ということを反省するとき、上の指摘は十分検討されていいだろう。

感情と情緒に訴える手法と聞くと、私は、すぐにナチスや戦前日本の合理性抹殺の翼賛政治の宣伝を思い浮かべる。また、それと連動して今も使われている原発プロパガンダの数々を思い浮かべる。
上記の理論を単純に「はいそうですね」と受け入れるほど素朴ではない。

でもしかし、もう一度、私たちが人を惹きつける演説を行い、私たちの考えを多くの人に届けるにはどうすればいいのか?という問題に立ち返ってみると、やはり有益な視点と基準であることは間違いない。

演説にせよ、デモにせよ、ウォークにせよ、さらにプラカードを持って立つスタンディングにせよ、すぐに街の風景にされてしまって、仲間内の確認作業になってしまう。(悪いと言っているわけではない。その効果はやらないよりははるかに大きい)これを越えて、次のステップに私たちの市民運動が進むためには何が必要か?を考えたときに大きなヒントになると確信する。人の心に届いてこその演説であり活動であり、強い権力に抗い、味方を増やすことこそ、庶民民衆にとって必要なことだからである。

ラポート・トーク、リポート・トークについての詳しい解説は、著者の『社会言語学入門(改訂版)』の中で紹介されている。両者のちがいを女性と男性の会話のちがいで説明している。女性がラポート・トーク中心で、男性はリポート・トーク中心という規定がなされている。その部分だけ読んでみたが、思い当たる節もあれば、そうでもないこともあり、今後の宿題にとっておくことにする。街頭演説を中心に考えれば、この『選挙演説の言語学』を再読した方がよいと思った。

 
posted by 村のトイレ屋 at 11:07| 山口 ☁| Comment(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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