2017年12月09日

沼は演説百姓よ  岩見隆夫著『演説力』

よく引用されることばだ。

沼は演説百姓よ
汚れた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺


浅沼稲次郎のある友人が、日労党結成当時に、以上のように評したという。
浅沼稲次郎は、1960年10月12日、凶刃に倒れた。
その追悼演説で、自民党の池田隼人首相が紹介している。
岩見隆夫『演説力』で、池田演説全文とともに読むことができる。(93,195)

「演説こそは、大衆運動30年の私の唯一の武器だ。
れが私の党に尽くす唯一の道である」と語っていたと池田は紹介している。

ここで言われている「演説百姓」とは、どんな意味だろうか?
ここに百姓がでてくることが、今一つ正確にわからない。
百姓、農業は、昨日の分類でいえば第一次産業、政治は何産業といえばいいのか?
迷路に入りそうなのでここは放置して、暇の時に考えることにする。

百姓という言葉を謙遜が入っているにせよ、
蔑視で使っているとは思えない。
逆に、この言葉を送った友人も浅沼本人も、誇りに思って使っているように受け取って間違いないと思う。
人々に直接働きかけて、演説で世論をつくる。
自分の語る言葉で社会を動かす。
それを農民が、田畑を耕す作業にたとえて、百姓と言ったのか。
それが、清貧の政治家のイメージと重なって定着したのか、
また、日本の農民農家の勤勉な姿と重なり、大衆政治家としての人気の原点になったのかとも考えられる。

さて、今の日本に演説百姓は、いるだろうか。
幸いなことに、思い浮かぶ人もいる。
マスコミがどうのこうのという暇があれば、街頭に立つ。
そこからのフイードバックで内容を磨く。

著者の岩見隆夫は、演説の復権を訴えているが、
松下政経塾的なことばだけを操る演説でなくて、
今必要なのは、本当に、庶民大衆の側に立つ演説百姓である。
そんな演説家が現れるように、宇部という街に舞台をつくっていきたい。

posted by 村のトイレ屋 at 09:02| 山口 ☀| Comment(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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