2017年06月14日

共謀罪について考えた

共謀罪の成立に安倍政権は、全力をあげている。
議会制民主主義の基本ルールを投げ捨てている。
委員会の採決を省略するという。
ある種の独裁とクーデターという事態だ。

分析的にみれば、二つ考えられる。
ひとつは、安倍政権を使い捨てる。共謀罪成立で戦争のできる国のある程度の完成として、安倍晋三内閣をお役御免にする。60年安保の強行採決と引き換えに岸信介政権を退陣をさせた。その繰り返しを日本の支配層は望んでいる。モリ・カケ疑獄と強行採決による手続き無視の責任を取らせ、安倍政権を使い捨て、追い落とす。

二つめは、さらに強権政治を強め日本を暗黒社会に追い込む。2020年自衛隊合法を明記した憲法改悪まで安倍政権にやらせる。そのために強権体制を固める。

何れにせよ、息のできない、意見の言えない、隣同士を喧嘩させ疑わせ分断する統治を狙っていることは明らかだ。官僚機構を含む日本の支配層は、戦前の隣組・五人組・隣保班を民衆支配の理想とみている。その復活を狙っている。政府の言うことは信じ、隣近所、仲間、友人知人のいうことは信じないか、密告する疑心暗鬼の関係に追い込むことを狙っっている。自分の意見を言わず、萎縮することを意図している。

さて、話は国会とその周辺が緊迫している緊急事態に、いささか閑談めくが、必要なことなので書いておく。
人間について、人々は過去様々に研究し考察してきていて、哲学だったり、宗教だったり、日常の知恵だったり、文学だったりしてまとめてきているが、以下の3点くらいは普遍的な真理だろう。
1,生病老死。生まれて死ぬ。間に病気と老衰がある。これは、どんな集団・個人でも、一度にことを成就することはできない時間という物理的な制約を生きていることを示してもいる。
2,食べること、住むこと、着ること。子ども生み育てること。世代の継承。
3,ひとりでは何にもできない。絶えず協働のもとにある。社会的な動物だということ。


時々、思い出すのだが、菅原文太さんの遺言的なスピーチは今も新鮮だ。
沖縄県の知事選、翁長知事への応援演説だった。
アメリカにもすばらしい人たちがいる、という結びに近いところでの言葉も考えの深さを感じたが、前半で語られた政府(政治)の二つの役割についての言及は、小気味よかった。
つまり、政治とは、社会に飢える人が出ないようにすること。誰もが食べることの心配なしに、のびのびと暮らせること。もうひとつには、戦争をしないこと。戦争をしないようにさまざまな努力を行うこと。

このシンプルなふたつの役割が政治だというのだ。

この二つに政治と政府、政治家の役割をしぼったとき、逆にいえば、他のことは放って置いてくれということだ。文化や芸術に、言論のあれこれに、教育のあり方に、ましてや人が人に何を相談しようがしまいが、基本は、自由であり、それぞれの責任に任せられていること、国家権力の介入の余地も必要もあってはならないということだ。
このことは、憲法の基本的人権や幸福権、生存権のところでもきちんと規定されていることだ。

さらにいえば、人間が人間として生きていく上での普遍的な真理にも合致することだ。
とくに、人は社会的な動物として、人と人が相談、協議、協調、合力、協働なしには1日も存在しえないのだ。それを法律でもって、縛ることがおかしいのに、「テロ」という脅し文句で価値判断を停止させ、あたかも反社会的な行為であるかのように描き出し、孤立と分断を持ち込む。表現や内心の自由まで踏み込んで、人の協同性を破壊しようとする。とんでもないことだ。悪政の極みである。絶対に成立を許してはならないと強く思う。

日本の支配層が何を思って今の強硬策を取ろうとしているのか、その判断にはしばらく時間がかかるだろうが、安倍使い捨て、安倍長期延命、いずれにせよ、政治の邪道として人間のあり方に敵するものであることは間違いない。加担したエリートたちにもその災厄はやがてふりかかってくるのだ。
ましてや、庶民民衆にとってとうてい許せるものではない。反対の声と意志を示すことはとっても大切なことだと強く思う。
posted by 村のトイレ屋 at 20:37| 山口 ☀| Comment(0) | 反戦・平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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