2016年09月14日

一粒の麦

Bさんへ、ご無沙汰しています。

周防大島で行う9月17日の「糞は資源だ」の講演会の準備をしています。

聖書の有名な「ヨハネによる福音書12章24節」
よくよくあなた方に言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

という言葉をキリスト教徒でもないのに、考えています。

行き詰まっているのは、直感的に「糞は資源だ」と関係ありそうな気がするのですが、いきなりそんなことを言い出しても、だれも納得しないだろうし、牽強付会になってしまうことはわかっています。

今回、少し紹介する安藤昌益は、キリスト教を知っていただろうか?という疑問も湧いてきます。
仏教、神道、儒教に対して猛烈な批判を行っています。

でも、「一粒の麦」の表現は、なにか安藤昌益に近いものを感じるのですが、
今の段階では、よくわからないのでなにも触れないほうがいいだろうとも思います。
しかし、せっかくの機会なのでなにか調べてみたい誘惑にかられて時間がどんどんたっています。

糞尿に対して、親近さを感じる文化と忌避するする文化とをあえて分けて考えれば、韓国(朝鮮)、中国、日本は同じ文化圏に入ります。キリスト教文化圏とその影響を受けたアフリカやキューバ などは、忌避する文化圏とされているようです。(嘉田嘉子さん、坂本太郎さん)
でも、イギリスでも、糞尿活用の事例は報告されているし、一概にきめつけられません。

自然の中で自然とともに生きていくのが人間だから、そんなに違いはないのではないか、という大雑把な論も魅力的です。自然に対抗対決し生まれてきたのが、ヨーロッパ近代文明で、東洋は自然に順応し調和的だという論も整合性はありますが、実際にはどうなんかなあ、という気はします。実証的な研究が少ないからあれこれ言ってるような感じもあります。どちらにせよ、火の使用から蒸気機関の発明を経て、核兵器や破滅的な核発電・原発まで行きついた現代文明は、反省の道をたどり直すこと以外に再生はないというのは確認できることです。とくに、福島原発事故を経験し今なお未解決のまま抱え込んでいる日本は、とくにそうでしょう。

たどり直す場合、この地球で自然の中で人が生きていくとはなにか?自然と人間、人間と人間を考えるのが糞尿論を構成すると思うのです。「糞は資源だ」という場合、人間にとって資源として役に立つということも含意していますが、地球上の生物、地球そのもの(土壌)にとっての意味もあります。跳ね返って人と人の関係、社会のあり方も対象になります。とくに都市の浪費ですね。
ここまで考えて説明をすると、「一粒の麦」も少しは自然と生命の循環的な意味合いを帯びてこないでしょうか?

「全然。聖書にはそんな解釈はない!」と言われれば、「はあ〜、やはりそうですか。」と言う以外にないのですが、キリスト教の説教をされる人にも、こんな人がいるからもう少し諦めずに考えてみることにします。
それは、こんな説教です。
http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/youshi04'04_18.htm

「狭き門」「糞門」「命に通じる門」がキ−ワードです。
今度、時間をとって、この辺りのことは教えてください。
 ではまた。

参考 以前のブログ(メモ)
http://atta-an.seesaa.net/article/185430534.html

               















posted by 村のトイレ屋 at 20:38| 山口 ☁| Comment(0) | おしゃべり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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