2016年03月19日

「日本を福島のレンズで切り取る」。赤城修司さん、アーサー・ビナードさん。

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隠さずに明るみに出す、記録する。
矛盾を矛盾として。
「1億玉砕」の戦時中との類似。
「奴隷が奴隷を育てる」という言葉も強く残った。

黙視するだけでは、時代の共犯者だ。
でも事実を知らないことには始まらない。
伝えないことには動かない。

でもやはり、おかしい。

戦争カメラマンは、戦場が危険だと知って行く。
福島の記録者・「福島のレンズ」は、危険地帯が日常化されることを危惧しながら撮影する。
銃弾と放射能。その違いはあるのか。

おかしいのは、この「フレコンバックが日常」という現実をつくりだしたものたちが、戦場の勝者のようにのうのうと大きな顔をしていることだ。
放射能の脅威を語ることは、責任追及の言葉となっており、それを回避するために沈黙と「慣れ」を強いていることだ。

矛盾の渦中から逃れて知らぬ存ぜぬを決め込んでいるのは誰か!
政府・行政、東電、意図的に隠すもの、加害の側の責任はあまりにも大きい。
1945年の敗戦直後の戦争責任追及の曖昧さをまたもや繰り返してはいけない。

そして、なによりも単純なこと。
危険はところからは、記録者の役割は多くは不要、多くの人は、逃げてほしい。
とくに子どもたちは、一刻も早く、一時でも長く、汚染地帯から引き離してほしい。

そんなことを考えながら観た。

見応えのある動画だ。(29分)
http://dai.ly/x3xqv05


アーサー・ビナード#日本を福島のレンズで切り取る... 投稿者 nnol2016

posted by 村のトイレ屋 at 06:04| 山口 ☔| Comment(0) | 日誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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