2014年09月05日

小渕大臣:「母親として不安は当然」から「でも、原発再稼働は推進」までの間にあるものは、なに?

情報は、全部知っていればいいというものでもない。
想像する楽しみをとられてしまうからだ。
「知らぬが仏」も恐いけれど、・・・豪雨で手動停止する老朽・古里原発が、抵抗物のない洋上200キロ圏内にあることを知って、無知は恐いと思ったけれど、・・・全部知ったからと言って、どうにもなるものでないこともある。

安部改造内閣について、人並みに興味をもってみているので、安倍首相の記者会見を、車の中だったので停めてラジオをゆっくり聞いた。もちろん、原発や福島のことをどういうかを知りたかったのだ。「福島のふ」の字も出なかった。あとで新聞で確かめたがやはりなかった。「コントロールされている」という大嘘の、その後の汚染水の処理破綻(ドライアイスを使うママゴト的処置やアルプスの効果なし)などについて、どう思っているのか、国内難民ともいうべき福島・東日本の被災者について、どう思っているのか、目先の功利的なことからいっても、10月には福島知事選があるのだから何かの言及があって、当然と予測していたのだ。
徹底無視、まるで福島も原発事故もなかったかのよう。
忘却と風化に任せて抹殺するつもりなのか。

政論好きの友人にこの話をしたら(ご存知かもしれませんが山口県には政治論議の好きな人が多い、もうちょっと行動しろよ!と思わぬこともないが、それは別の話)
「言及していないことと、やっていないこととは違うのだ、裏で闇の中で買収やら恫喝やらを行って、彼らなりの福島対策をやっているのだ、ただ都合の悪いことがあるので自慢しないだけなんだよ」と言われた。
佐藤雄平知事の退陣にあたっての放射性廃棄物の中間貯蔵施設受け入れ決定などが、「金目」が動いてその辺の事情を示唆しているのだろうか。

そういうこともあるだろうと思って、さらに閣僚はどう思っているのか調べていたら、こんな放送があったことを知った。
ANN(テレビ朝日系)ニュース、
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20140904-00000032-ann-bus_all
小渕経済産業大臣:「母親として、どう理解すればいいのか。不安だとか心配だというのが先立ってしまうのは当然のことだ」
 2人の子どもを持つ小渕大臣は「母親が子どもの将来を考えて原発に不安を抱くのは当然だ」と述べました。


20140904小渕原発母親として不安、でも.JPG


A 母親として原発は不安。それは当然。
B でも、原発は再稼働することを推進。

AとBは、どうつながるのか?
間に何を挿入すれば、Bになるのか。
私の考えでは、AとBはつながらない。「だから、どんなことがあっても再稼働には反対。理屈よりも何よりも母親として本能がそう言わせる。理屈抜きの感情論というなら福島の事故の検証をすませてから言ってほしい」という言葉がつづく。自然な言葉の流れだ。

ほんとうに不思議だ。何を挿入すれば、再稼働は当然となるのか?
以下、思いつくだけの言葉をいれてみた

● せっかく、経産大臣になったのだから経産省の方針と違うことは言えない。「再稼働反対」とだけは言わないでください、と事前にレクチャーを官僚から受けたので、

● 内々に安倍首相の本音(原発推進、いずれは新増設)を聞いているので逆らえないので、

● 経済的な事情、エネルギー的な事情も自分でも理解できるので、ここは母親としての不安は脇へおいたので、(・・・この辺りが官僚の役割、嘘の情報をもっともらしく提供する)

● 女性閣僚で改造内閣の目玉だし、母親としての立場もあるので、とりあえず「母親としての不安」という言葉を言っておいた。とくに意味はないので、拘束されずに「再稼働推進」に抵抗なし。論理矛盾を感じないので、

● 東京や東日本から、川内原発のある鹿児島県は遠いので、自分の子どもや選挙区の有権者の子どもは影響を受けないので、・・・

● 私も、政治家であり、組織人なので、決まりには従うので、・・・


話は、ガラリとかわるが、
8月30日に、翌日に川内原発再稼働反対の現地行動を控え、
当日午後には、下関市で関東大震災のときの朝鮮人虐殺を忘れず、さらに歴史を掘り起こしていこうという集会(映画と報告)があった日に、
午前10時半から、『ハンナ・ハーレント』の映画の上映会が山口市であった。

体力的にもだが、原発再稼働、関東大震災と朝鮮人虐殺、加えて、ユダヤ人問題と戦争責任についての哲学的な考察。頭が考える能力の限界を越えるのではないか、おいおい、ここでも流量調整槽が必要ではないか、山羊や牛ではないのだから後で反芻して考えることはできないぞ、などと冗談で自分を励まして、ともかくにも映画をみた。

すごいと思ったのは、この映画のなかで、アイヒマンを裁く裁判の場面で、イスラエル政府の撮影した実写フィルムが使われていたことだ。
アイヒマンの表情や弁明が俳優ではなく本人のものとして見ることができる。
「ユダヤ人を収容所におくることは、大量虐殺につながることを知っていたのではないか」と検察官が何度も執拗に尋ねる。
それに対して、アイヒマンは、ほとんど表情を変えずに、、
「私は当時の政府の決定に従っただけです」と淡々と何回も答える。
自分は、どう思っていたのかはいわない。なにか「悪いと思っていた」といったかもしれないが、私はそのひとこともなかったように思う。「自分には責任がなかった。判断をしたのは私ではない。私には責任がない」と淡々と語っているのだ。

ここから、ハンナ・アーレントは、テーマである「凡庸な悪」について考察することになる。大学での講義の場面で、それは詳細に語られることになる。巨大組織のなかでの犯罪、責任を他者転嫁できる心理としての「凡庸な悪」を発見したことは、彼女の功績といえるであろう。しかし、それですべてが説明できるのかどうか、私にはまだ十分咀嚼できていない。そもそも戦争という中でなされた大量虐殺や犯罪をどう捉えればいいのか、戦時以外の、それこそ関東大震災時の朝鮮人虐殺を自警団に属する「普通の」日本人が行ったことをどうみるのか、「凡庸な悪」もひとつの解答と思うが、そもそもなぜそんな大量虐殺が起こったのかを考えないことには、話がはじまらない気がする。

小渕優子氏は、母親であり、政治家である。
母親としては、原発と再稼働には不安であり、心配であるのは当然とする。
政治家としては、自民党であり選ばれて大臣になった。だから原発再稼働は推進の軌道に乗るという。

話を最初に戻せば、
母親であるということは、政治家の言葉、パフォーマンスであって、「言ってみただけ」というのなら政治家の態度としては、首尾一貫する。間に何も挿入しなくても、「ああ、そうなのね」と理解できる。その程度の人なのだ。

でも、母親であることが本心から出た言葉であり、原発の事故が実際に起こったことを忘れていないのなら、また福島の事故収束の現実を知っているのであれば、やはり、AとBの間に、なにかが挟まっていることになる。
情報がなくても、この間を何かで埋める「想像遊び」にはいいが、しかし、再稼働されて実際に事故がおき、障害者や高齢者が避難できなくて、甚大な被害が発生した時には、いや、九州・西日本が壊滅的な危機に叩きこまれたときには、遊びではすまなくなる。そのときでも、小渕優子氏は、「あのとき、私は母親として心配、でも、内閣としては・・・」と言って弁解するのだろうか。アイヒマンのように能面のごとく無表情でそれを語るのだろうか。いや彼女だけではない、蔭にいて操る立場にいる官僚も、地方組織を含めて、付き従っている自民党も、安倍政権に従っている人々は、そんな弁解の言葉を腹の中に持ちながら、原発再稼働、集団的自衛権行使、憲法解釈改憲に賛成しているのだろうか。沖縄辺野古の新軍事基地のための暴力をいいと思っているのだろうか。
山口県の自民党支持のみなさんに聞いてみたいものだ。
















posted by 村のトイレ屋 at 10:24| 山口 🌁| Comment(0) | 上関原発白紙撤回。避難移住者支援。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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