2014年08月14日

戦場の便所)安岡章太郎「わが糞尿譚」から


安岡糞尿譚.jpg


戦争を現実に起こりうるものとして考えることが最近、多い。

ある朝、戦争がはじまっていた、とか
いきなり戦争動員令や反対するものの拘束が行われ始めるとか、
そんなことを考えることが増えた。

もちろん、杞憂に終わることを願っているが、
願うばかりでなく、反対の意思表示、平和を願う仲間の獲得を急がねばならないだろうと思う。

戦争といえば、生死だ。
殺されるか、殺すかだ。
否応なしにその現場に向かわされる。非常に受け身な立場からの選択になってしまう。
受け身の被害者だが、最悪の加害者になるのだ。

だから、それ以前に、このような選択肢を迫られる前に、拒否できる条件をつくり守らないとお手上げの状態になってしまう。

もう一つ、戦争の日常のイメージも大切だ。
切羽詰まった選択だけでなく、「戦時下の日常」だ。
 
軍隊の便所というと、もう大抵の人がその性質をご存知であろう。すなわち、初年兵の泣きに行くところであり、マンジュウを食べたり、タバコを吸ったり、秘密の本を読んだりできる場所である。けれども、そう言っただけでは、この小さな部屋のありがたさは十分理解できないにちがいない。そこへかようためには、さまざまな難関があって、内務班で休養しているときでも、まず、
 「誰某、便所へ行ってまいります」
と、大声で報告することは、ちょうど会社員が勤務時間中に外へお茶へ飲みに行くのと同程度の遠慮がいる。無論、早くすませて、かえってこなくてはならない。下痢しているのではないか、とか、あるいは逃亡、脱柵、自殺などではないかという疑いを、すぐにかけられるからである。
         安岡章太郎「わが糞尿譚」86-87

筆者は、下痢ばかりしていたそうである。
そして、下痢をしていることがわかると食事を止められてしまうそうである。
その大変さが、この文章の前に細かに書かれている。
そして、この文章のあとには、便所に辿り着くまでの苦労が、詳細に書かれている。
会社勤めで「ちょっと外へ」というのは、ずいぶん気楽なことがわかる。

戦場では、プライバシーが制限されるので(あるいはほとんどなくなるので)便所が、自分を取り戻す場になる。「ほっと、ひとりになって息をつく所」という安息の場としての便所である。
そして、それさえ、十分確保できないのだ。
それが、毎日なのだ。
嫌だなあ、と思う。がまんできないと思う。がまんできるほど、自分は強くないと思う。

安岡章太郎編『滑稽糞尿譚』は、全体として、とても、面白く納涼緑陰の本としては最適なのだが、安岡章太郎本人の「わが糞尿譚」だけは、大きな声で笑えないのだ。

筆者は、復員後、「便所にゆっくりしゃがみこんでいたいというのも、かねてからの願いだったが、これはたいした魅力ではなくなってしまった。」と書いているが、やはり軍隊という監視社会の中の便所だったからだろう。
でも、今の平時日本にあって、ときどき、「トイレが私の唯一の息抜きの場です」とか「僕のトイレは書斎以上の書斎なんだよ」という声も聞かないではない。それは、「集団生活とトイレ」という問題(とくに学校)であり、はたまた、「トイレは、わが城」という趣味に属する意見だ。
それぞれ、別個に検討すべきことだろう。

蛇足になるが、20代30代の若い人で「戦争もけっこう格好良いいのではないの」という人も増えているが、戦場の便所はどうなっているか、という視点からも再考してほしいと思う。毎日を辛い便所通いをしながら、あまつさえ、人殺しに加担するなど、どんな正義がふりかざされようと耐え難いことだ。


参考:安岡章太郎・編『滑稽糞尿譚』
http://goo.gl/NcflGH













posted by 村のトイレ屋 at 10:13| 山口 ☁| Comment(0) | 便所 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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