2013年09月12日

【拡散希望します】山口市瑠璃光寺で今年も中国残留婦人慰霊と交流の集まりがあります。若い人の参加を希望します。



  2013年 「慰霊の日の集い」ご案内 

今年は、一段と暑い日が続きましたが、
皆様におかれましては、お変わりなくお過
ごしのお過ごしのことと思います。 さて、
敗戦から68年、遠い中国の地で故郷を偲び
力尽き果てられた、残留邦人の方方の悲劇
は歴史の事実として、決して忘れることなく、
語り継がねばなりません。 

今年も第22回「慰霊の日」を迎え、永住
帰国者の方々も参加して御霊の追悼法要を、
下記の通り営みたいと存じます。 
どうぞお誘い合わせの上、ご参加ください
ますようご案内申し上げます。 

法要終了後、庫裏にて思いを語り合いたいと
思います。ご参加くださいませ。    

      記

と き 10月1日(火) 13:30〜16:00ところ 
山口市 瑠璃光寺本堂   
 (「慰霊の碑」参拝は各自で) 
 主催  中国残留婦人交流の会  
  世話人代表  磯野 恭子
  事 務 局  蕨  昭子


参加希望者は、私宛メールをください。

ando-maipenrai★nifty.com 

★を@に変換してください。

20111001交流会.jpg


写真は、法要のあとの交流会(2011年10月1日。瑠璃光寺)

「国の棄民政策は、今にはじまったことではなく、「満州」への移民計画と敗戦後の放置をみれば

とんでもない非人間的な仕打ちだったことがわかる。福島原発事故で、絶対にそうなってほしくない」

そのように語っている人もいました。




参考:中国新聞 現・世話人代表、磯野恭子さんのインタビュー

http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik101218.html

<12> 中国残留婦人 執念の放送で国動かす

2010年12月18日
中国で残留婦人から話を聞く磯野さん(左端)=1988年 ※磯野恭子


 私が手掛けた最後のテーマは中国残留婦人です。「五族協和」(「満州国」建国時に日本が使った理念)の先兵として国策で中国へ送られた女性が日本に帰国できない。その女性たちの身の上には略奪、身売り、そして裏切りがあり、中国で果てようとしていました。何とか祖国へ帰し、終戦を迎えさせたかった。
 1986年から92年にかけて、中国へ繰り返し渡った。87年放送の「祖国へのはるかな旅―ある中国残留婦人の帰国」は、文化庁芸術祭の芸術作品賞に選ばれた。
 86年5月の新聞記事で残留婦人の存在を知り、取材を始めました。最初は、婦人7人の一時帰国を目指す東京の若者に密着しての放送を考えたが、若者の試みが失敗しました。
 翌年2月の全国放送が決まっていました。取材できずに、真っ黒で流すわけにはいかない。そこで、私たち山口放送(周南市)がこの7人の一時帰国に取り組んだ。中国の役人に掛け合って許可をもらい、放送3カ月前に何とか中国へ渡りました。
 7人の一時帰国では七つの取材クルーが追い掛け、それぞれの姿を伝えました。婦人の日本への思いは熱いが受け入れる側はクールだった。空港に家族が迎えに来たのは1人だけ。多くの人が家にも入れず、用意した宿に泊まってもらいました。
 「祖国への―」の放送をきっかけに88年、山口県内で「中国残留婦人交流の会」が設立された。
 私も含めた9人が理事になりました。中国で残留婦人に会い、思いを聞く。自分たちが身元保証人となって一時帰国を実現させ、全国でシンポジウムも開きました。残留婦人の自由な帰国を求める署名も集めて、厚生省(当時)に陳情しました。私は現実を知らせようとドキュメンタリーやニュースに何度もまとめた。
 93年3月には「大地は知っている―中国へ残された婦人たち」が再び芸術祭芸術作品賞を受賞。10月、厚生省が永住帰国の希望者全員を受け入れる方針を決めた。
 放送が運動になって、運動が一つの行政を動かした。3千人くらいいた残留婦人のほとんどが祖国へ帰りました。もう放送の執念ですよ。
 会の政治的な運動も終わった。今は毎年10月に、瑠璃光寺(山口市)で婦人の慰霊祭を開いている。熱心だった会長が立てなくなり、今年、私が会長を受けた。慰霊祭も終息させるか、大きな転機にきています。






posted by 村のトイレ屋 at 00:40| 山口 ☀| Comment(1) | 行事の予定:遊び、学び、遊ぶ。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
小坂正則さんのブログから関連の証言としてメモしておきます。
小学校時代に満州から引き揚げてきた友人がいました。このような話が、背後に会ったのだと今は思います。

今は亡き痴呆の母に教えてもらった「私の幸せ」
小坂正則さんの個人ブログ
http://nonukes.exblog.jp/19715804/

母は20歳そこそこで満州の開拓団の農業指導員として働いていた父と写真による見合いにより父に嫁いできました。
戦争が激しくなって、父は戦争に行ってしまい、昭和21年8月15日から、母は3歳の長男と1歳の次男を抱えて、開拓団に残された年老いた男性と女性や子どもたちの集団は中国大陸をそれこそさまよいながら、日本をめざしたそうです。その苦労は言葉には言い表せないほどのものだったと思います。日本へ帰国する間に多くの方が餓えや病気で亡くなり、女性や子どもたちの多くは中国に残り、中国残留日本人や孤児となったそうです。母は最後まで2人の子どもを抱えて帰ろうとしましたが、途中で栄養失調や病気で二人とも亡くしてしまいました。中国残留孤児のニュースに、母は我が子が帰ってくるかのように食い入るようにテレビの画面を見入っていました。
Posted by 安藤 at 2013年09月26日 12:13
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