2012年03月08日

環境サロンの紹介、朝日新聞

朝日新聞山口版に紹介されました。3月6日(火)


3・11とは、なんだったのか、一体なにが起こったのか、
そしてどうなるのか?
「3・11以後の暮らしと環境問題」の環境サロンは、そんな素朴な私自身の疑問に答えようとスタートしました。

私は、環境学習館の取り組みとしてテーマを提案し、運営進行の担当として、月に一回の連続講座をすすめて来ました。それぞれの分野で詳しい人に報告(話題提供)をお願いし、参加した人のツッコミと本音に近いトークで、茫漠としていた当初よりは、問題のありかがわかってきたと思っています。

掴んだことは、人それぞれでしょうが、私は核心に座っている問題は、福島第1原発事故だと思いました。
これを避けて通れないことが、嫌というほどわかりました。
どのテーマを考えようと少し掘り下げれば、「フクシマ」です。

反対に、今度は、「フクシマ」から3・11の全体に迫る必要を感じます。

私個人としては、この環境サロンを通して学んだことの集大成を、3・18小出裕章さん講演会においています。

3・11で変わってしまった世界。
この現実をしっかりとみつめること、そしてどうするのかを考えることです。
とくに、福島の現実が、今のようにひどいまま放置されるとは、思ってもいなかったので、真剣に学ばなければならないと考えています。

福島の子どもたちはすぐに避難措置がとられると思っていたのに、そうでなくて反対に、学校や地域という檻をつかって監獄的な場所で放射能被曝が進められている。児童虐待の国家犯罪ではないのか。「国の言うことは全て正しい」と思い込ませようという態度。2〜3年後に結果が出た時、西村誠さんが指摘するように、水俣以上におぞましい隠蔽工作がされるのでしょうか。


原発を推進してきた結果が、この有様です。
積極的に推進の側に立たなくても、容認してきたのは、私を含むほとんどの大人です。
同時代の犯罪であり、私たちは、共犯者です。
「騙された」という言い訳も、一応ありそうです。
でも、騙されるのは騙されるなりの責任(小出裕章さん)があります。
その責任も、曖昧にしてはならないでしょう。
避けて通れない課題を、無理やり避けて遠ってきた結果とも言えます。

環境や福祉や交際交流を語る人が、いまもって原発には、口を閉ざしているのが、不思議です。
言説の本物と偽物を見分けるリトマス紙になりました。

もう一度、今回の環境サロンとは違った形態で、事実を中心に系統的に3・11を整理しておきたいと思っています。

とりあえずは、3・18小出裕章さん講演会で一区切りつけたいと思います。ぜひ、小出さん講演会にご参加ください。ともに考え、一緒に次の道を探りましょう。


クリックすると拡大されます。


20120306朝日環境サロン311.jpg




posted by 村のトイレ屋 at 15:45| 山口 | Comment(2) | 上関原発白紙撤回。避難移住者支援。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

日本語には時制 (tense) はない。
過去・現在・未来のそれぞれの世界を脳裏に描くことは難しい。
前世・現世・来世に関するインド人の教えも、日本語脳では定かでない。
「我々はどこから来たか」「我々は何者であるか」「我々はどこに行くか」といった哲学的命題は考えられない。

理想 (ideal) は、未来時制の内容である。
意思 (will) も未来時制の内容である。
理想がなければ、未来社会の建設計画もない。
意思のないところに方法はない。(Where there’s a will, there’s a way).

意思はなくても恣意 (self-will) はある。
建設的な話はできなくても、出来心はある。
問題解決の能力はなくても、事態を台無しにする力だけは持っている。
政治は遅々として動かない。人々の頭を閉塞感が襲う。

英語のリスボンシビリティ (responsibility) は応答可能性であり、自己の意思により現実対応策を考えて行使するものである。
責任は、自由意思により果たすところが大切なところである。
意思なくしては、責任は果たせない (責任はとれない)。とかく、この世は無責任となる。

ところが、日本人には意思がない。子供・アニマルと同様である。
場当たり的な行動にでるしかない。
未来時制の内容に確信は持てない。不安ばかりが募る。
ただ目的の遂行だけを求められるならば、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことになるのは必定である。

以前マッカーサ元帥は、日本人を12歳と評したことがある。
日本人は彼の評に立腹こそすれ、その意味を深く掘り下げることはしてこなかった。
我々は、浅薄である。秋入学の動きは、浅はかである。だから、留学生は、我が国を避けて英米に行く。
知的な人になるためには、英米の高等教育が必要である。これは国際的な判断である。
英米の高等教育は、奥の深い大人になるための更なる英語の勉強である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/






Posted by noga at 2012年03月08日 16:14
日本語には時制 (tense) はない。
過去・現在・未来のそれぞれの世界を脳裏に描くことは難しい。
前世・現世・来世に関するインド人の教えも、日本語脳では定かでない。
「我々はどこから来たか」「我々は何者であるか」「我々はどこに行くか」といった哲学的命題は考えられない。

理想 (ideal) は、未来時制の内容である。
意思 (will) も未来時制の内容である。
理想がなければ、未来社会の建設計画もない。
意思のないところに方法はない。(Where there’s a will, there’s a way).

意思はなくても恣意 (self-will) はある。
建設的な話はできなくても、出来心はある。
問題解決の能力はなくても、事態を台無しにする力だけは持っている。
政治は遅々として動かない。人々の頭を閉塞感が襲う。

英語のリスボンシビリティ (responsibility) は応答可能性であり、自己の意思により現実対応策を考えて行使するものである。
責任は、自由意思により果たすところが大切なところである。
意思なくしては、責任は果たせない (責任はとれない)。とかく、この世は無責任となる。

ところが、日本人には意思がない。子供・アニマルと同様である。
場当たり的な行動にでるしかない。
未来時制の内容に確信は持てない。不安ばかりが募る。
ただ目的の遂行だけを求められるならば、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことになるのは必定である。

以前マッカーサ元帥は、日本人を12歳と評したことがある。
日本人は彼の評に立腹こそすれ、その意味を深く掘り下げることはしてこなかった。
我々は、浅薄である。秋入学の動きは、浅はかである。だから、留学生は、我が国を避けて英米に行く。
知的な人になるためには、英米の高等教育が必要である。これは国際的な判断である。
英米の高等教育は、奥の深い大人になるための更なる英語の勉強である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/






Posted by noga at 2012年03月08日 16:14
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。