2006年10月16日

石川達三著「日陰の村」読み終わる

やっと読み終った。途中、投げ出そうかと思った。結果的に読み終わらないほうがよかった。
暗い話だった。最後まで暗かった。
いい話、明るくなる話がひとつもない。最後にあるかと期待したが甘かった。
「カタルシス」とか「感動」とかそれに類する話も一切ない。
明るい日差しに向かって、伸びていこうというような人物は、
まるっきり登場してこない。
俗物的に「いい思い」をしたのは、出世した水道担当の役人と
高利貸しやその他あくどく農民からむしりとったり、機に敏で利にさとく奔走した人間だけである。さもしくのさばって、懲らしめられてもいない。

村長は、人がよく結局ただだまされただけで終わる。
6年間に陳情60回以上。「もうすぐだから」と担当の役人に愚弄されただけだった。
蓆旗(むしろばた)の抗議行動も一回あるが、若手のリーダーたちは身を崩してしまう。分断策に軽くつぶされる。金持ち土地持ちとまったく土地も金も持たない農民に分断される。

芽生えた恋愛も、娘を売る父親の身勝手と本人たちの優柔不断でつぶれる。娘を売った父親は、帰りに自責の念で酔いつぶれ崖から落ち事故で死んでしまう。娘は買い戻されたが、娘と恋人の男はどうなったか、小説的な示唆もない。

都会のエゴに役人を手先として、一寒村が、ずたずたにされた、切り刻まれて歯向かいも出来なかった、ということだけが残る小説である。ただ暗然とする。救いとか、教訓とかはない。
せめて恨み節のひとつも叩きつけて、
都会の人よ1000万大都市は、この山村のずたずたにされた犠牲のうえに乗っかっているのですよ、といいたいが、それも気弱い。
この小説だけ読んでいると「長いものには早く巻かれなければいけない」かのような、無力感が漂ってくる。
ここまで人間を愚弄した上に、東京の水がめが出来上がっているのかと思うと、うまいとかまずいとかでなくて、吐き気がして止まらなくなるかもしれない。
一方の、さもしさ、他方の無力さ。それが感染しないように祈るばかりである。読まなければよかったと本気で思う。歴史的事実を何かの要約で知って考えたほうがいいだろうと思う。

あらためて、戦後のダムのたたかいの到達点、蜂の巣城の室原知幸氏らの偉さを思う。私は、九州生まれなので、当時、少年時代、新聞を教師の解説や年上の従兄弟や友達や周りの大人たちの論評を聞きながら育った。
悪く言うものはいなかった。骨と筋が気持ちよく通っている。
戦前と戦後の人権感覚の違いなのだろうか。
ここに人々の基礎的なところでの権利主張の違いがあるからだろうか。
それとも著者の視点と構成がおかしいのか。
読みたいという人がいたら、とめることはしないが、
とくにすすめたくもない本だ。

松下竜一著「砦に拠る」を読み直してみよう。
どうにもこうにも気分の持っていきようがない。

水処理通信262号の編集後記で長峰さんが、
「高校生が追う ネズミ村と731部隊」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4876522979
をすすめている。全国各地を旅する長峰さんの酒場情報も
この編集後記の楽しみだけど、こんな本の紹介もありがたい。
ネットでうわさだけは聞いて気にはなっていたけれど、
後押しされるかたちで今日注文しておいた。



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posted by 村のトイレ屋 at 20:18| 山口 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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