2009年08月24日

二宮尊徳を知っていますか?

明日8月24日から9月3日までタイ北部パヤオ県に行ってきます。
NPO法人シャンティ山口のスタディツアーとトイレ設置・環境衛生事業のためです。

さて、タイへは、「肥溜めと畑の智恵」の応用と発展のために行くのですが、糞尿を資源としてとらえる思想(近代日本が、下水道の普及によって廃棄物としか認識できなくなってしまうまえの、すばらしい思想)を端的に示す言葉を見つけました。


一五三 翁曰、儒に循環(ジユンカン)と云ひ、仏に輪転(リンテン)と云ふ、則天理なり、循環とは、春は秋になり暑は寒に成り、盛は衰に移(ウツ)り富は貧に移るを云、輪転と云も又同じ、而て仏道は輪転を脱(ダツ)して、安楽国に往生せん事を願ひ、儒は天命を畏(オソ)れ天に事(ツカ)へて泰山の安を願ふなり、予が教ふる所は貧を富にし衰(スイ)を盛(セイ)にし、而て循環輪転を脱(ダツ)して、富盛の地に住せしむるの道なり、

 (中略)

一五四 翁曰、人の心よりは、最上無類清浄と思ふ米も、其米の心よりは、糞(フン)水を最上無類の好き物と思ふなるべし、是も又循環の理なり

出所は、『二宮翁夜話』です。
二宮尊徳の語ったことを福住正兄が筆記した本です。

二宮尊徳という人については、薪をかついで本を読む像に示されるように勤勉な人という刷り込みしか私にはないのですが、そして、その道徳臭に抵抗を覚えるですが、でも上記の言葉はすばらしいと思いました。
全体像を再認識する必要がいずれあるかもしれないと感じています。

そのすばらしさは、一つには、人―米―糞尿を一体のサイクルとしてとらえている。前段の循環という言葉の規定を今日的に使う循環と同じにみなしてよいのであれば、まさに物質循環そのものを表現しています。

ふたつには、米の心という表現です。なにか擬人化を越えています。もっと米と一体化しているように感じます。そして米から見れば「糞尿は最上無類の好きもの」として、必須の資源・栄養物として求めていることを表現しています。

三つには、このような端的な表現に至るまでに、当時にあっては、物質循環的発想が当然のこととして認識されていただろうと推測されます。

日本の近代化は、下水道の普及を文化水準のバロメーターとし、資源である糞尿を河川・湖沼・海洋へ廃棄することによって、この循環システムも捨てさってしまいました。
シャンティ山口の試みは、タイの農山村にあって、衛生環境事業の取組みを、100年前の選択・分岐点にもう一度、「資源としての糞尿」という視点から再スタートせんとするものです。

それは、実際的にタイをはじめ東南アジア農山村部おいては、
1、高い電気代を要する活性汚泥法の下水道や浄化槽は、最初から無理があること。同じく、大きな設備高度な技術と複雑なメンテナンスは、大きな足かせになること。
2、下水道の資源放流という思想は、水資源という意味でも、農地に必要な栄養・肥料という点でも、無駄があること。
3、「先進国」の100年の下水道の歴史は、「後進国」にとって必ずしも、日本の近代化の過程でうまれた「下水道は文明の証」という幻想は、もはやないこと。

これらの要因から、下水道に変わるもの、真に循環的な方法を求めており、「肥溜めと畑の智恵」は、原理的にも、実際の適用からも大きな可能性を秘めているといってよい。それを私たちは、タイの現地で知ることができました。

人の糞尿資源を別扱いする必要は全くなく、尊徳翁に習って循環のオーソドックスなサイクルに乗せればいいのだと思います。
また、そうすることでタイや東南アジアで磨かれたシステムは、もう一度日本に進化してフィードバックしてくることを私たちは、願っています。

そんな人間の基礎的なところから
「共に生き、共に学ぶ」シャンティ山口のモットーを実現していきたいと念じています。
 

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posted by 村のトイレ屋 at 23:18| 山口 ☀| Comment(0) | NPO法人シャンティ山口の活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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