2008年07月08日

本>シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』(1)

シューマッハー
 『スモール イズ ビューティフル』 
           講談社学術文庫 1986年刊

 第2部第5章 人間の顔をもった技術    


 省力機械と余暇 (p197)から引用。
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 私がはじめて世界各国をまわり、豊かな国や貧しい国を訪れたとき、
「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の
量に反比例する」という命題を、経済学の第一法則として立てたくな
った。

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 ここで反比例とされているのが、もちろんミソだ。
 普通は、ほとんどの人が、正比例と思いこんでいる。
 時間を生むための省力機械の導入が、かえって、人を忙しくしてしまい、余裕のない生活に追いやってしまう。
 ここから著者は、有名な中間技術論・適正技術論を導いていく。第3部 第三世界 第2章 中間技術の開発を必要とする社会・経済問題(p226)だ。

 さて、私たちは、中間技術論を自覚的に認識していたわけではないが、思い当たることがあるので記録しておきたい。省力機械を使わなかったために、かえって楽しいおもいをすることができた例である。
 
 シャンティ山口の今までの蓄積と「互いに顔の見える支援を」という理念から、最先端技術を持ち込めば、すべてが解決するわけでもないことを私たちは知っていた。また、それには多大な費用を要することであって、最初からできない相談であるということもあった。さらに追加すれば、合併浄化槽の最新鋭の機種が、設置後、1年もたたずして、コンセントを抜かれ放置されている姿を見ていた。太陽光発電の装置も、草の中に捨てられ残骸だけが残っていた。
 維持管理に費用がかかるから、支援で送っても、送り手の善意とは別に嫌われ捨てられるのだ。
 
 トイレと水処理システムの設置にあたっては、いくつかの原則が自ずから建てられた。
 1、「嫌気性処理+土壌処理」を原理とする、日本の素朴な循環型の技術
 を、タイパヤオの現地に応用する。
 2、その際、日本で使っている資材にこだわらない。あくまでも現地の資材に徹する。
 3、また工事のやりかたも、現地にあったやり方を現場で工夫する。その際、現地の人が、現に行なっている方法をまず尊重する。また、行いやすい方法を取り入れる。
 
 センサーイ村のトイレ・水処理の設置工事にあたっては、掘削工事をすべて人力で行なった。重機は導入しなかった。1日に10人〜20人の村の人にでてもらう。日当は支払う。村外に出て働く賃仕事と同じ水準だ。移動時間、移動費用が不要なぶんだけこっちで働く方が条件はよい。人の手配は、村長が前日、こちらの必要人数をきいて調整し、村内に流れるスピーカーで連絡する。人間関係やモン族独特の家のつながりがあるので、組合わせは、事情をわかった人であることが望ましい。(村の人口は、約1000人)
 メンバー構成には、いつも感心した。親方になる人がいる。彼は、チャンと呼ばれ、本職左官屋だ。たいがい全体の作業を取仕切る。彼が都合の悪いときは、別のチャンがかわりに出る。10代後半から20代の若者が、いつも数名加わっている。女性が、いつも相当数参加している。掘った土を運んでもらったりする。
 
 重機は、最後まで使わなかった。
 そのわけは、村長からの要望もあるし、私たちの考えもある。
 1、便利であるが、一度村の作業に導入されると今後使わざるを得なくなる。
 2、重機は高くて簡単に買えるものではない。たとえレンタルでも、一度使って便利さを覚えると外からの業者につけこまれてしまいかねない。
 3、なんといっても、働き手は十分いる。時間も、突貫工事が要求されるわけではない。雨季乾季の天気との相談は、必要だが、そんなにあわてる工程を組まなくてすむようにすれば、すむことだ。
 4、そして、これが一番大きな理由だが、重機では、「みんなが共にみんなのトイレと処理システムをつくる」という共同の感覚を持てないことだ。どうしても、オペレーター2〜3人に、あるいはひとりかもしれない、任せきりになってしまい、しかも3日もあれば終ってしまう。日本の工事のやり方だと3日以上は、業者はかけないだろう。それでは困る。村人は参加するゆとりがなくなる。
 5、今後も続けるのか、ある程度の専門化は必要になるのではないか、競争というよう
な事態になったときにどうするのか、今後、検討する課題がないわけではないが、今はなくてやっていける。私たちの判断としては、それで十分だ。 
 
 3月の現地行きのとき、シャンティ山口の仲間と曹洞宗青年会のみなさんが、ともにトイレのできた現地を見に行くことになった。それを伝え聞いたセンサーイ村の村長が、「ちょうどよいトイレの完成を祝い、シャンティ山口に感謝する集会をやろう」と祝賀会を企画された。オボドウという郡の役所の数名も参加され、それに村のみなさん150人が参加された。簡単な式のあと(いわゆる祝辞など)トイレとシステムを佐伯さん(シャンティ山口事務局長、工事と事業の責任者)が案内し、説明した。このときメタンガスは見事に着火し、みんなで拍手して喜んだ。そのあと、牛1頭が祝宴に供されモンの料理が出され共に祝った。
 トイレで祝賀会。おそらくそんなに例のあることではなかろう。
 それも、みんなの協働作業のもたらしたたまものである。
 私は、「享受すべき余暇は、省力機械の量に反比例する」ということばで反射的にセンサーイ村での工事風景と祝賀会が思い浮かぶ。
 
posted by 村のトイレ屋 at 16:22| 山口 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 自然浄化法-タイと日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 日本の農村から人がいなくなった原因も同じ。いま我が村の近くでは、果樹と野菜農家にしか後継者がいない。果樹も野菜も機械化が進んでいない。稲作はほとんど機械化された。働き手は少なくてよい。雇用と自らの労働による手作業がたくさん必要な品目が生き残っている。
Posted by みやきん at 2008年07月18日 15:45
みやきんさん、こんんちは。
日本の農村にひきつけていただいてありがとうございます。
「果樹と野菜は人手がかかる、だから、農村に人が残る」
「稲作は、機械化されて小人数で作業が終るようになった、だから人がどんどん出て行った」
ここから出てくる結論は、人手のかかるものほど、農村に人を残すことができる、ということですね。
これに採算の問題を加味すればいい。

簡単に答えは出ませんが、発想をいったんひっくり返す必要がありますね。
Posted by へちまや at 2008年07月23日 08:08
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