宮内さんのブログを読んでいたら、こんなことが書いてあった。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakacoco3/34225174.html#34225174
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山羊を飼い始めて「道草を食う」を実感しています。道草を食うと、目的地まで時間がかかります。でも、この道草を食う余裕があるほうが、ヤギにはとてもいい感じです。何かに追いまくられている人は、道草を食う余裕をなくしています。そんな人はぜひ、やぎか羊を飼ってみてはどうでしょうか。道草を食うことの大切さと、その姿を見るこちらの人間がとても癒されること感じて欲しいですね。
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山羊に道草はとっても大切なんだという観察がおもしろいと思った。たしかに、山羊を見ていると道草を食ってばかりだ。どこに行くのか目的がはっきりしていないようにも見え、道草というより、単なるふらふら歩きではないかと思うときもあるけれど、そう判断すると間違う。私の好きな方向へ行こうとすると「違う!」と言ってコースを元に戻す。ちょっといい草があったから食べただけで、やはり目的があったような動きをする。そしてどの山羊もそうだけれど、一度行きたいコースを決めたら、少々のことでは言うことを聞かない。ロープを引っ張っても前足で突っ張る。後ろから押すと知らぬ顔をして、尻をくねらせ圧力をそらす。そのくせ、おいしそうに見える草があるとちょっと首だけ動かして食べる。よっぽどの草なのかと思ってしげしげみつめるが、とくに変わった草ではない。伸びた芽の先端だけをひょいとつまんで、「うん、どうかした?」という顔をして数歩進む。
そんな様子をみながら、山羊の運動につきあうとき、私は何を考えているのだろうか、と振り返ってみると、実は何にも思い出せない、どうも何にも考えていないようだ。作業の段取りを考えているとか、懸案事項の検討をして結論を出したとか、なにかあってもよさそうなものだけれど、何にもない。車の運転中は、よくアイデアが浮かんで困るときがあるが、停めてメモしたこともあるからやはり考えながら運転していることになる。でも、山羊の散歩の場合は、そんな記憶がゼロだ。
話は違うが、ある目的地にいく場合、コースの選択のときに、ふたつのパターンがあるようだ。ひとつは、一度走った道は、経験があるから様子がわかっている。だから次も通るようになるパターン。
もうひとつは、一度通ったコースはもう知ったわけだからおもしろくない、別のコースを使いたくなるパターン。いつかある人と話していて、その選択になったときに、その人は迷わず、前者だった。「考えなくてすむので効率がよい」という理由だった。
私の場合は、振り返ってみると後者だ。いつも何か一本でも新しい道がないと気持ちが落ち着かない。出来るなら全コース変えたいが、そんなにルートがあるわけないから、ついつい遠回りになってしまう。あるいは、わざと行き止まりの道を入って引き返すというような無駄なことになってしまう。ガソリン代が高騰している今時分にはいい癖でなくて、もったいないなあと自分でもつぶやく。
道の選択だけでなく、年中行事の決め方にもそれが出てくる。昨年の日記かメモを月始めなどに見て、それで決めていくのだそうだ。反省点も書かれていて、行事設定など間違いが少なく、たんたんと進められるそうだ。この点でも、私は、そんなやりかたが、嫌いでというか出来なくて、メモなどをみるもののそれは去年やったからもう今年はやらない、何かおもしろいことはないか、と考えている。
結局、このふたつの違いは、性格というか人生に対する態度の違いというか、なにかしらあるような気がする。一方は、安定性と効率を重視する。他方は、好奇心と新しがりやが中心になっている。変わったもの、何か新しいものが目に触れないと落ち着かない。しかしこれも、すっきりふたつに分類できるというものでなくて、ひとりの人間のなかにどっちも同居していて、それぞれあらわれ方に強弱があるだけかもしれないとも思う。
あったか村ってなんですか?とよく聞かれる。何をめざしているんですか?とも聞かれる。はじめたころ、こんな質問をテレビカメラの前でマイクを出されてされたことがある。「環境村で工房村ですよ」と自分でも意味不明なことをもぐもぐと何か答えたけれど幸いなことに放送されなかった。「山羊や羊を飼って、道草にゆっくりつきあうことですよ、人生の道草の場ですね」と今なら答えるかもしれない。でも、この方がもっとわかりにくいだろうなあ。結局、宮内さんのいうように、山羊か羊を飼うしかわかってもらえないのかもしれない。


